「『ここ』で生きていくと覚悟を決めた人たちと、一緒に支えあっていきたい」。神奈川県内で暮らす避難者の交流支援団体「かながわ東北ふるさと・つなぐ会」(以下つなぐ会)で副会長を務める高野昌棋さんは、ゆっくりとした口調でそう話した。
高野さんは生まれも育ちも福島県浪江町。町には基幹産業がなく、多くの住民は町から最短距離で約4Kmしか離れていない東京電力福島第一原発で関連の仕事に従事しており、高野さんもその一人だった。多少の不便さはありつつも、自然豊かで穏やかな暮らしができる地元を心から愛していた。そんな中起きた原発事故。浪江町に住む人々は生まれ育った土地から離れることを余儀なくされ、高野さんも福島県内の避難所を転々とした。
今後の働き口などを考え、震災から半年を過ぎたころ大きな決断を下す。将来的には再び戻ってくることを思い描きつつ、生まれ育った故郷を離れ、家賃の価格帯などを考慮し相模原市に移り住んだ。
見知らぬ土地での生活。戸惑うこともあったが、徐々に相模原での生活に慣れていき、移住から数カ月が過ぎた頃、横浜で避難者同士の交流会があることを知った。「散策も兼ねて」という何気ない気持ちで参加してみたところ、そこには東北各地から神奈川県に避難した人たちが集い、中には浪江町にある自身の家から目と鼻の先に住んでいた男性もいた。同じ苦しみを経験した人々との交流は、故郷への帰還を望む気持ちとは別に、高野さんの中に「『ここ』で避難者同士支えあいながら、暮らしていきたい」という、新たな気持ちを芽生えさせた。
その後も、避難者同士で交流を続けていた高野さんは昨年5月、交流会で親しくなったメンバーらで「肩ひじ張らず、楽しみながら交流できる場」を同じ立場の人々へ提供しようと、つなぐ会を結成。昨年はバスツアーで静岡などに出かけ、参加者はイチゴ狩りを楽しみ、同じ東北出身同士だからこそできる話に花を咲かせた。高野さんは地元への帰還を望みながら避難生活を続ける人々の参加も歓迎しているとした上で、「新たな土地で暮らしていこうと、覚悟を決めた人もおり、そうした人同士が長く繋がっていけるよう、出入り自由で緩やかな会にしていきたい」と活動方針を話した。
浪江町を巡っては、一時帰宅した人が宿泊できる施設の整備を2016年度内に進める計画が上がるなど、避難解除後に備えた施策が進められている。高野さんは「今後、戻るかどうかはわからない」としつつ、今は相模原で暮らし、会の活動を続けていくという。一人の避難者として、そして避難者をまとめる立場として、これからも「覚悟」を決めた人々とともに、前を向いて歩いていく。
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アゴラ春号5月3日 |
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