終戦からまもなく73年になります。戦中、戦後の苦難を風化させぬよう、当時を生きた方々からお聞きし、改めて平和を心に刻む機会といたします。
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農家の5代目、7人兄弟の長男として生まれる。小学校卒業とともに、家業を継ぐため旧制中学の相原農蚕学校(現・相原高校)に進学した。当時の学校には配属将校、軍事教官が在籍。まさに「軍隊予備軍」の養成ともいえる教練として、生徒は柔道、剣道にいそしみ、軍隊式に隊列を組んで歩行する訓練を強いられた。
昼休みともなれば校庭に集められ、運動会などで歌う応援歌を4番まで練習。上級生から厳しく指導されるなど、軍隊式の訓練は従属化を鮮明にした。「上級生から左手を腰に、右手を振り上げろと怒鳴られて辛かった」。訓練を積み重ねるうちに、国家への忠誠心も植え付けられていく。小学校では戦争をあおる軍歌が身近にあり、チャイムの替わりにラッパが鳴っていた。こうした軍事教育がじわじわと染み込み、次第に軍隊は憧れとなった。「予科練(旧日本海軍で飛行訓練を受けた練習生)に入り、国のために手柄を立てて華々しく死ぬ、そう思っていた」と当時を振り返る。
家族では母親の兄が1944年12月、38歳で招集。フィリピンの輸送部隊として出征した。戦時中は「一億総玉砕」が叫ばれる最中。「国のために」のもと、母親は兄の身を案じるそぶりを見せなかった。その後、戦況は悪化をたどり終戦。伯父は生き残り、無事に帰ってきた。だが、同じ部隊で生き延びた兵士はわずか3分の1だった。
終戦は後から人づてに知らされた。「負けたのか、がっくりという思い。まだ子どもだった」。軍事教育の爪痕はすぐには癒えない。落胆の思いは募った。一方で世の中は激変する。国粋主義から180度転換し、政治を批判する教師が出てきたり、主従関係のような上級生との関わりは軟化した。授業も一変し教練などによる軍隊生活はなくなり、実習が増加。教科書もなければ物資もない貧しさだったが、本来あるべき教育の姿がそこにはあった。駐在所で補助員を担っていた父親は終戦でその役目を終え、ホッとした様子を見せていた。平和は、人々の生活を着実に照らしていった。
終戦から73年。争いは絶えず、世界では今もどこかで小競り合いが続く。その原因を、国同士の勢力争いに見る。「勢力を広げようとするから摩擦が起きる。満州まで国土を広げた日本がそうだった」とし、「軍隊生活のような時代を繰り返してはならない」と訴える。あの戦禍から何を学び、どう生かすのか。その姿勢が次代に問われている。
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アゴラ春号5月3日 |
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