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戦後73年 述懐 あの時、私は─ 第2回(全3回) 今も焼付く被爆者の叫び 福島 康人さん(90)南区上鶴間在住

社会

公開:2018年8月9日

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自身の戦時体験の取材に応じる福島さん=7月27日、南区上鶴間
自身の戦時体験の取材に応じる福島さん=7月27日、南区上鶴間

 終戦からまもなく73年になります。戦中、戦後の苦難を風化させぬよう、当時を生きた方々からお聞きし、改めて平和を心に刻む機会といたします。

* * *

 筑紫山脈を望む佐賀の静かな町に生まれた。母は5歳の頃に亡くなり、父は満州に住んでいたため、弟と二人、祖母に育てられた。戦時中は旧制佐賀高校に通っていたが、労働力不足を補うために1943年に発令された学徒動員令を受け、長崎県川棚(かわたな)町の海軍工廠へ。約200人の仲間とともに鍛冶屋として働いた。世は太平洋戦争真っ只中で、深刻な食糧不足のためバケツ一杯の塩をなめながら働く日々。「欲しがりません勝つまでは」。食べ物がないことに不満を言える時代ではなかった。

 1945年8月9日午前11時2分。当時17歳。いつも通りに工場で働いていると突如、目もくらむ閃光と耳を裂く爆発音が響き、空には巨大なきのこ雲を見た。しばらくして、長崎市内から来る列車から降りる人々を見て言葉を失った。体中の皮がめくれている女性、既に死んでいる赤ん坊を抱いた母親。一人ひとりが、長崎市内での惨状を物語っている。3日前に広島に落ちたという新型爆弾の噂が頭をよぎった。

 その晩、軍の命令を受け被爆者の救護のため長崎市内に向かった。被爆者のうめき声と異臭が漂う中で夜を明かし、翌日から4日間、まだ残る放射能を浴びながら遺体を魚雷工場に運んで材木の上に並べ、火葬を続けた。無数に運び込まれる遺体の数々。黒焦げになり男女の区別さえつかないものも多い。「この人たちにも家族がいる。それなのに戦争が奪ってしまった」。一つの破壊兵器による長崎の惨状は今も脳裏に焼き付いている。

 13日の夕方に川棚の工場に戻った。後日、戦争に敗れたことを工場の大人に教えられた。茫然自失な思いだった。いつ振りかの砂糖入りの汁粉で身体を休め、明け方に満員列車に乗りこみ佐賀の家族の元へ帰郷。その晩、家の電球は点けたまま過ごした。空から「敵に見つかるまい」と消灯していたのは昨晩まで。終戦を実感した瞬間だった。

 故郷では高校に復帰し、戦時中にできなかった勉学に励んだ。卒業後は横須賀の米軍基地での日雇いを経て防衛庁へ入庁。同僚が相模原に住んでいたことから自身も妻とともに移住した。定年退職した現在は、放射能の影響から後遺症が疑われ、貧血や頭痛などに悩みながらも、自宅近くの南区の小学校で児童らに平和講演を行っている。「しっかり学んでしっかり遊び、友人とは仲良くすること。皆が仲良くすれば世界は平和になる」。戦争体験者として、未来を担う子どもたちに伝え続ける。

 

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