はやぶさ2の挑戦 第3回(最終回) 仲間、そして市民に感謝 はやぶさ2プロジェクトマネージャ 津田 雄一さん
はやぶさ初号機に携わり、プロジェクトエンジニアとして技術の取りまとめを務めるなどキャリアを重ねていた矢先、はやぶさ2のプロジェクトマネージャに任命される。全体の指揮を任されるという、思いがけない展開に信じられない気持ちでいっぱいだった。当時は39歳。総指揮を執る年齢としては若過ぎると感じた。恐る恐るJAXAに問い合わせると、明確に依頼された。不安はあったが、探査機の設計を取りまとめてきたこともあり、誰よりも機器を熟知している自信があった。「今までやってきた仲間と一緒にしっかりやってやろうと」。2015年4月のことだった。
「はやぶさ2の探査は予想以上の成果だった」と途中を振り返るも、その裏にはピンチもあった。1つは探査機の開発期間が3年と短期間だったことから打ち上げのスケジュールに苦労を要した点。間に合うかどうかのギリギリ詰まった日程を仲間と力を合わせ乗り切った。そしてもう1つはリュウグウが想定よりもはるかに激しい凹凸の地形だった点。着陸困難な状況に陥り、ミッションが達成できなくなるかというほどの大ピンチだった。苦難の状況下で技術面を見直し、より正確な地形の解析など約5カ月間に及ぶ再調整の末、探査機の性能を飛躍させ、見事着陸を果たす。再調整によって探査機をさらに強力なものにした。
はやぶさ初号機で失敗に終わったミッションへの悔しさも忘れない。イオンエンジンの技術など初号機から踏襲すべきものは残し、紆余曲折を経て地球帰還を果たした状況や経緯も冷静に精査した。すべては「同じことが起きないように」。19年2月、リュウグウでの幅約6mの地点にピンポイントタッチダウンという難解なミッションを成功させた際、会見の場で「(小惑星イトカワにある岩石を採取するための金属弾の発射が失敗に終わった)初代はやぶさの借りを返した」と話した言葉が、初号機で味わった悔しさを物語っている。
自身は相模原市出身。さまざまなミッション成功の場面では、仲間、そしてはやぶさ2を応援する市民への感謝の気持ちを表してきた。「地元で支援してもらえる。技術者としてこんなにうれしいことはない。カプセルが相模原に帰って来たらすぐに市民の方に知らせたい」。
仲間、そして市民との歓喜の瞬間は、もうすぐだ。
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アゴラ春号5月3日 |
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