戦後76年〜平和への希求〜
8月15日は終戦の日。戦時中を生きた市内の人々にお話を伺い、二度と戦禍を被ることのないよう平和を希求する機会と致します。
新潟県・里五十公野村(さといぎみのむら)(現・上越市)で6人兄弟の三男として生まれ育つ。農業を営む傍ら、鏡やガラスを製作・販売する商店も経営するなど「半農半商」の一家で、幼少の頃は稲作を手伝った。
戦時中は関東から疎開してくる家族が多く、子どもの数も増え出し、通学していた小学校は1クラス60人、多いときで70人に及ぶこともあり、入りきれないような状態だった。それでも決して村は安全な場所とは言えず、隣接する三条村は鋳物や金物の製作所が多かったために敵軍の標的となり、戦闘機B29の爆撃にさらされ、戦火で一気に空が真っ赤に染まった。その様子は遠くからもよく見え、爆撃を終えたB29は爆音とともに自分の上空を抜けると、遠方に去っていった。声が聞こえないほどの爆音は今でも耳から離れない。B29の襲来は事前に情報をキャッチした役場がスピーカーを通じて警報を伝え、空襲警報が発令されたときには自宅の敷地内にあった防空壕に隠れた。B29が通り過ぎるのを待ちながら、恐怖に怯え、「生きている心地がしなかった」と回想する。
実父は農林省(現・農林水産省)の職員だったため、兵役を免れた。それでも親の兄弟たちは皆、海軍に招集され、戦地へと送り込まれた。全員が戦死し、または行方不明になった。学校の友達の中には軍に招集された父親も多く、そうした親を持つ子どもたちは特別な施設に預けられた。当時は病を患っているように見えたり、元気がなさそうに映った。
農家に育ったとはいえ、満足な食事は与えられなかった。作った米は国によって接収されていたからだ。1年分の備蓄として残していた米も残らず取り上げられた。学校に持参する弁当箱には蒸かしたさつまいも2個だけ。朝からろくに食事もできず、昼食の時間を待たずに食べることも。それでも農家で生まれ育ったことには「(他の家庭と比べて)まだ良い環境だったなと思う」。
迫る敗戦の時
戦火が広がるにつれ、国が劣勢に追い込まれているのは子どもながらにもわかった。大人同士の話を見聞きするうちに敗戦の時が刻一刻と近づいているのを知っていた。そうして訪れた1945年8月15日。その日は登校日で、昼に全校生徒が体育館に集められた。理由は「天皇が国民に敗戦をおわびする放送を聴く」ためだった。雑音が多く聴きずらい放送を皆で最後まで真剣に聴いた。ただ何を言っているのかは全然わからなかった。
教室に戻ると、担任の教諭が玉音放送の内容を丁寧に説明してくれた。それからほどなくして、教育勅語の慣習はなくなった。以前とは180度違う教育の在り様だったが、特別な違和感はなく、受け入れるがままに日々を送った。それでも、5歳頃から軍隊の厳しさ、偉大さを叩き込まれてきた世代。すぐには手放しで敗戦による戦争の終結を喜ぶことはできなかった。そうすることで、「非国民」と見られてしまう恐れがまだ地域に残っていたからだ。軽はずみな言動によって、親やきょうだいに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
戦争が終結して、よかったと思えることがある。それは校庭で思いっきり遊べるようになったこと。いつ空襲が来るかわからない時代にあって、校庭で遊ぶことは許されなかった。家の近くや空き地などで遊ぶのとは違う、校庭で夢中になって楽しむ友達との時間。「やっぱり、鬼ごっこができたことが一番うれしかったなあ」。校庭で高らかに響き合う、子どもたちの遊ぶ声。平和を実感した。
伝えたい戦争の記憶
相模原には50年ほど前に仕事の都合で移り住んだ。今では田名地区の老人クラブで役職に就くなど忙しい毎日を送る。そうした中で、改めて「戦争を二度と繰り返してはならない」という思いを強くする。以前は孫に聞かれたら戦時中の出来事を話したりもしたが、今ではそうした機会もめっきり減ってしまったことに危機感を募らせ、「地域の子どもたちに話せる機会があれば」と期待する。そうして、戦時中の経験を後世に残すことによって平和を維持し続けることができるよう願いを込める。
「平和への思いを未来につなげていかなければいけない。戦争は絶対にするものではない。それだけはしっかり訴えていきたい」。戦争の恐怖を知る一人だからこそ、あの校庭で遊ぶ声がもたらした平和の大切さをいま一度噛みしめ、力の限り伝え続ける。
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アゴラ春号5月3日 |
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