1945年の夏、広島市内の女学校に通っていた12歳の女の子は今年80歳になる。「最近物忘れがひどくてね」。机いっぱいに広げた資料の数々は原爆に関するもの。原爆の語り部として、市内外の小中学校で現在も課外授業を行っている。
久保さんは広島市比治山高等女学校に入学し、4カ月後に被爆した。強制疎開で空き家となった家を取り壊すため、召集された学校の教室にいた時だった。「爆風で飛ばされそうになりました」。机の下から立ち上がった時には、「痛い、痛い」と泣き叫ぶ級友たちの姿があった。「早く逃げようと声をかけると、みんな呆然と立ちすくんでいた。何でだろうと不思議だった」と当時を振り返る。60年振りに級友と再開した時、その理由が分かった。「赤鬼のようで怖かったのって」。顔の左側にガラスの破片がいくつも刺さった久保さんの顔は、鮮血で真っ赤だったのだ。
父を奪い、母に重傷を負わせた原爆を積極的に語り継ごうと思ったのは、長年勤めた慶応病院を退職してから。助からないと医者に言われながら被爆後40年生き抜いた母からは、妊娠したとき「絶対に産め」と諭された。今では立派に成長した息子たちが誇りだ。
地獄を体験し、その後を生きて今が在ること。伝えなければならないと思うのは「原爆の恐怖」だけではなく、核廃絶はもちろん、戦争の被害者にも加害者にもなりたくないという「原爆被害者の思い」だ。「真剣に聞く子どもたちに励まされています」と笑った。
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アゴラ春号5月3日 |
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