田園風景が広がる自然豊かな広島県は、旧・賀茂郡黒瀬町(現・東広島市)で生まれ育った。小学校を卒業した後は、広島市内の学校に通う兄と姉を追って同じ学校に通うつもりだったが、小学校の担任から「市内に出るのは死にに行くようなものだからやめた方がいい」と止められ、近場の女学校に進学した。入学当初から3・4年生には動員令が下され軍需工場で働いていたが、1年生は授業を受けることができ、大好きだった音楽の授業を楽しみに学校へ通った。
ところが終戦の年になると戦況はさらに悪化。女学校の2年生にも動員令が下され、軍需工場用の防空壕を作る作業に駆り出された。楽しみだった音楽の授業もなくなったが、「少し年の離れた大学生は学徒出陣で、戦地に行っている時代。仕方ないという思いでした」と振り返る。当時は食料不足も深刻だったが、米作りが盛んな地域だっただけに米は十分に蓄えられていた。しかし、「贅沢は敵」の時代。両親は周りの目を気にして食卓に白米を出すことはなかった。
そして8月6日。よく晴れたその日、午前8時の始業に合わせて作業場に出勤すると、間もなく空襲警報が鳴り響いた。慌てて身を潜めていたところ、空襲警報は警戒警報に変わり、外に出てみるといつも轟音を響かせ飛び交う爆撃機より遥か高くに一機の飛行機が見えた。そして飛行機から「キラリ、キラリ」と光るものが落ちた。広島市内とは山を隔てていたため、その物体が何かはわからなかったが、数分後山の後ろから薄紫色の煙が上がった。それが、一瞬にして何万人もの命を奪った「原爆」だった。幸い、爆心地から離れていたために被害にあうことはなく、兄と姉も奇跡的に当日は広島市内を離れていたので無事だった。
終戦を迎え、ほどなくすると授業が始まり、やっと戦争が終わったことを実感。広島の町も時間をかけながら徐々に復興していった。
多くの命を奪った戦争から71年の月日が経った。「争いを起こさないためには、日常から人と人との繋がりを意識することが必要。今は留学生をはじめ多くの外国人の方が日本にいるので、そういう方々との繋がりを持つことが長い目で見れば争いを防止することに繋がるはずです」と平和への願いを込める。
そして「戦争の時代を生きた私たちがそうした思いを子や孫に伝えていかなければいけません。今まで、平和や戦争について家族と話す機会がありませんでしたが、今は相模原で娘と孫と一緒に暮らせているので家族みんなで話してみたい。そうやって戦争の記憶を次の時代に伝えられたら」
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