「より多くの方に能に親しんでいただきたい」―。そんな思いから相模原を拠点に40年余り、能を通じて地域の発展に尽力してきた。自身が主催する公演「さがみはら能」は今年で20周年を迎え、夏の風物詩「薪(たきぎ)能(のう)」では演じ手として舞台を盛り上げる。日本文化が下火になりつつあると懸念する中、65歳を迎えた今でも「能を継承していかなくては」という強い使命感が、自身を突き動かしている。
所作、息づかいに魅かれ
寺院で幼少期を過ごした少年は、12歳で能と出合う。装束を纏い舞台で舞う能楽師と、袈裟を着た住職がゆっくりと歩く姿、能の謡(うたい)と寺の経…そのすべてが一つに重なった。「能の所作、息づかい、衣を翻す姿にどこか魅かれました」と、600余年もの歴史をもつ能の世界にのめり込んでいった。
翌年、13歳で名門・梅若六郎家に弟子入り。住み込みで8年間、修行を積んだ。その後は能楽師として独立。およそ30年に渡り能の伝承に努めてきた功績が認められ、1998年には国・重要無形文化財(総合)に認定された。
「相模原」で伝えていく
相模原を活動拠点に据えたのは、20歳頃に東京で指導していた弟子の一言だった。「相模原には能を伝える人がいません。ぜひ、舞台や教室を開いて文化を広めてください」。以来、能の公演はもとより、その収益金を東日本大震災の被災地に寄付するなど、慈善活動にも精を出してきた。
能に入れ込む一方、大の釣り好きでもある。「全国で一番色黒な能楽師かな」と笑うと、日に焼けた肌に白い歯がこぼれる。ひとたび舞台で漁師役を演じれば、網を投げるさまは漁師さながら。「本物」に触れることが、役に魂を宿していく。
およそ230曲の演目を後世へ伝承すべく、日夜稽古に励んできた。演技のみならず、京都から能面師を招いては、能楽堂での本公演などで使う能面を1年に1面ほど、自作している。「まさに変身したよう」と表現する様々な顔を模した能面は、役が変わっても「自分の顔のような気がします」。
能の技術を伝承するべく自宅に併設した「松山能舞台」。今春からは能楽資料館として一般開放する予定で、自作の能面を展示するほか短い演技講座も行うという。能を通じて地域の文化醸成に尽力しつつ、自身も芸にさらなる磨きをかけて後進の育成に繋げるべく、松山さんは今日も舞台に立つ。
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