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人々の「心」が問われる時代

社会

公開:2017年8月3日

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 並木在住の秋葉稔さん(79)は、相模陸軍造兵廠に勤めることになった父の都合で、終戦間近の1943年、6歳で現在の星が丘に移り住み、戦争を経験した。「市役所通りで遭った機銃照射はすぐ真横を通ったけれど、麦畑に飛び込んで助かった。ほら、映画で見たことあるでしょ」。当時小学生だった秋葉さんの相模原での思い出には、戦争の痕も多く残る。

 「お腹は常に空いていたよ」。当時上溝小学校に通う2年生だった秋葉さんは、まだ開発前の原っぱと土埃だらけの相模原で育ちざかりの幼少期を過ごした。「母と一緒に農家で草むしりをすると、米一升がもらえるんだ」。食糧難の戦時中、配給で受け取る真っ黒焦げで腐り気味のさつまいもと、わずかな米を混ぜて食べた「芋ごはん」は忘れられない味だという。現在の横山周辺には桑畑が広がり、そこで採れる桑の実と野イチゴで空腹をしのいだという。相模原署の辺りは、戦車置場になっていたそうで「戦車によく忍び込んで、それを食べていたんだよね」。空腹と鳴り続ける空襲警報の毎日は「怖かったけれど、皆がそういう時代。子どもだったし、そんな世の中が不幸だとは思わなかったね」

 間もなく、秋葉さんの父も満州への出兵が決定。「日本軍の勝利は目前」と誰しもが信じた戦争にも終戦が近づく。照明弾と電波妨害テープが空を舞う中、空襲警報の回数は日に日に増えた。夜は家族で防空壕へ避難し、自宅では敵軍から隠れるため窓に黒い布を被せ、息を潜める日々が続いた。その後秋葉さん一家は「日本が負ければ、厚木に上陸する米兵が子どもの首を切る」という噂から、母の実家である千葉県への疎開を選択するが、結果疎開先で爆撃を受ける。「隣の家の茅葺屋根が目の前で吹き飛んだよ。間一髪だった」。バラバラになった瓦礫の中で過ごし2年後、8歳の時に終戦を迎えた。

 「戦争には絶対に反対だよ。家族はバラバラで、人の心は壊される。あんなに悲しいことはない」。満州から帰国した父は銃撃で足を負傷し、晩年神経痛に悩まされた。高校生の時にアルバイトに行った座間キャンプでは、親切なアメリカ人がいた一方で、日本への強い恨みを残すアメリカ人らとも出会った。秋葉さんは、現在の日本を取り巻く緊迫した内外の情勢について「本当に難しい状態」と危惧しながらも「平和を守るために、何が必要なのか一人ひとり向き合うことが大切」と説く。「力の強い者が勝つだけの世の中であって欲しくない。『言葉』だけでもいけない」。「国のため」でなく「人のため」に何ができるか。「これからの若い世代の人たちにはそんな気持ちを持って頑張っていってほしい。国民一人ひとりの道徳心が問われる世の中だよ」と目を細めた。

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