1945年8月15日の終戦の日から今年で75年。戦中を知る相模原の人々に当時を振り返ってもらい、絶対に風化することのないよう継承するとともに、戦争で亡くなった人々に「平和の誓い」を表すことで改めて現代を生きる私たちへの警鐘とする機会とします
上溝で男2人、女4人の6人兄弟の次女として生まれ育った。上溝小学校時代に思い出に残っているのは昭和天皇が陸軍士官学校(現キャンプ座間)に来訪した際に見送りに行ったこと。児童が淵野辺駅まで歩いて向かい、駅では天皇が乗車した横浜線の車両が通り過ぎるまで頭を下げ続けた。当時の教諭に天皇の顔を見てはならないと指示を受けていたからだ。「(天皇は)神様同然だったの」
小学校から国民学校を経て青年学校を1942年に15歳で卒業した。通常なら戦争遂行のため、相模原では造兵廠(現在の相模総合補給廠)に動員されるのが一般的だったが、自宅近くに横浜銀行の上溝支店があり、懇意にしていた支店長の計らいで同店に勤めることに。預金、為替、貸付などの銀行業務をひと通りこなした。
ただ、ときは戦時中。食料難で米に限らず、さつまいも、すいとんなどを食べて堪えしのぐ日々。食料はおろか、衣料品まで配給の時代。隣組(町内会などの下に設けられた地域組織)で農協へ出向き、決められた数量の配給物を受け取り戻ってきては、各家庭に分配した。それでも、父が衣料品の自営業だったこともあり、衣服に困ることはなかったと振り返る。
召集令状が下った男子たちが兵役に向かうたびに行われる「兵隊送り」にはよく駆り出された。「勝ってくるぞと勇ましく」の露営の歌と万歳三唱とともに、上溝駅から見送った。「必死そうだった」と、戦地に向かう男子たちの表情が今でも思い浮かぶ。
勤めを果たしながらも、17歳頃になると戦況は激しさを増していく。大型爆撃機B29は毎日のように上溝を通過。空襲警報を告げるサイレンが連日のように鳴り響き、緊迫感と恐怖感が襲う。当時は相模原から八王子まで望めたこともあり、八王子の空襲で爆撃機同士が戦火を交える様子が間近に見えたり、上溝付近の空中で銃撃戦が展開された際は命の危険を感じ、畑に逃げ帰ったことも記憶している。「本当に死ぬかと思った」
そして、来たる8月15日。お盆休みで家族と過ごす中、玉音放送とは知らずに何気なくラジオに耳を傾けていると、天皇の声だと気付く。初めは何を言っているのかわからなかったが、徐々に「終戦」に至ったことを理解した。「これでもうあのB29も来なくなる」、そう思うとほっとした。そのうち、国道129号を歩いてそれぞれの家路に向かう兵隊の姿が見られた。各家庭で爆弾除けに貼られていたテープをはがす様子も目に映る。「ああ、これで終わったんだな」。日常を取り戻していく周囲を見やり、静かに終戦を実感した。
家族にはうれしい知らせもあった。沖縄戦で玉砕したと思い込んでいた長男が戦後1カ月ほどして生還した。さつまいもをいっぱい食べ、戦前よりも太って帰ってきた姿を前に、笑いと喜びが入り混じった。
地域活動を50年
戦後は子ども2人を育て上げ、35歳のときに地域活動に関心を寄せる。持ち前の行動力で、健康づくりや食生活を推進する奉仕団体「わかな会」を立ち上げたほか、さまざまな会の中心人物として存在感を示すなど活躍。老人会の会長として戦争の語り部、昔遊びの指導など子どもたちの健全育成にも尽力し、およそ50年以上にわたり活動に力を注いできた。そうした中で自身が大切にしているのが「つながり」だ。
戦争体験者として、地域活動を思いっきりできるのも平和であるからこそ。それだけに、人とのつながりは平和の原点だと考える。「今は人々の関係が希薄に感じる。皆で仲間をつくって奉仕活動に打ち込んでみてほしい。私はまだまだ、いろいろやってみたい」と言うと、笑顔が弾けた。
気力と意欲みなぎる92歳が、未来を担う私たちに向けて、必死にエールを送り続ける。
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