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特別企画 8.15 終戦の追憶 また、人と繋がりあう社会に 河本 博さん(79)東淵野辺在住

公開:2013年8月8日

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大野北地区の会長として様々な会合で大忙し。だからこそ人との交流の大切さを感じている
大野北地区の会長として様々な会合で大忙し。だからこそ人との交流の大切さを感じている

 今年もまた、8月15日の終戦の日をむかえます。そこで今回は、相模原での戦渦を知るお二人にお話を伺いました。改めて、当時の様子を振り返ります。

 1945年8月15日。小学5年生だった。その日は朝から空襲で、サイレンが鳴り響く。学校から全校児童に呼び出しがあり、お昼に校舎で玉音放送を聴いた。何を言っているのかわからなかったが、先生たちが涙をこぼしている姿を見る。その後、日本は戦争に負けたと先生に告げられた。「勝つと思ってたし、まだ負けてないとも思った。でもすぐに進駐軍がやってきて、終わったんだと」と静かに回想した。

 戦時中の遊びといえば兵隊ごっこ。男の子にとって将来の夢は「兵隊さん」と皆口を揃えて言っていた時代。学校には兵隊がいて、竹やりの練習などの指導を受けた。小学5年生以上は学徒動員として近隣の軍需工場に駆り出され、銃弾を作った。しかしグラマンなどの戦闘機の標的になり、空襲の恐怖にさらされた。

 戦時中のごちそうは米のご飯。正月、お祭りなどでしか食べられなかったが、戦後すぐは食べることさえなかった。淵野辺にはヤミ市が並び、食べていくために盗みも横行した。「戦後は自由になったけど、食べ物の心配ばかりでね」

 戦中の相模原は工場が多かった分、戦後も朝鮮戦争の特需景気などで淵野辺も賑やかだった。それでも、「空襲は嫌だ。何より国民が皆貧しくなるのはごめんだよ」と語気を強める。そして、現代社会にも警鐘を鳴らす。「平和への思いは当然だが家庭崩壊、晩婚化、無関心とか日本が心配」と危機感を募らせる。「外国人も多く受け入れる時代。外国と仲良くしないと。人付き合いも」。貧しくも人との繋がりで戦後を乗り越えたように、またあの頃の助け合う日本になってほしいと、社会を見つめ続けている。
 

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