神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS

戦後73年 述懐 あの時、私は─ 第1回(全3回) 忘れ得ぬ 軍事教育の怖さ 小山 昌彦さん(85)清新在住

社会

公開:2018年8月2日

  • X
  • LINE
  • hatena
自宅の庭で戦争当時について話す小山さん=7月25日、清新
自宅の庭で戦争当時について話す小山さん=7月25日、清新

 終戦からまもなく73年になります。戦中、戦後の苦難を風化させぬよう、当時を生きた方々からお聞きし、改めて平和を心に刻む機会といたします。

* * *

 農家の5代目、7人兄弟の長男として生まれる。小学校卒業とともに、家業を継ぐため旧制中学の相原農蚕学校(現・相原高校)に進学した。当時の学校には配属将校、軍事教官が在籍。まさに「軍隊予備軍」の養成ともいえる教練として、生徒は柔道、剣道にいそしみ、軍隊式に隊列を組んで歩行する訓練を強いられた。

 昼休みともなれば校庭に集められ、運動会などで歌う応援歌を4番まで練習。上級生から厳しく指導されるなど、軍隊式の訓練は従属化を鮮明にした。「上級生から左手を腰に、右手を振り上げろと怒鳴られて辛かった」。訓練を積み重ねるうちに、国家への忠誠心も植え付けられていく。小学校では戦争をあおる軍歌が身近にあり、チャイムの替わりにラッパが鳴っていた。こうした軍事教育がじわじわと染み込み、次第に軍隊は憧れとなった。「予科練(旧日本海軍で飛行訓練を受けた練習生)に入り、国のために手柄を立てて華々しく死ぬ、そう思っていた」と当時を振り返る。

 家族では母親の兄が1944年12月、38歳で招集。フィリピンの輸送部隊として出征した。戦時中は「一億総玉砕」が叫ばれる最中。「国のために」のもと、母親は兄の身を案じるそぶりを見せなかった。その後、戦況は悪化をたどり終戦。伯父は生き残り、無事に帰ってきた。だが、同じ部隊で生き延びた兵士はわずか3分の1だった。

 終戦は後から人づてに知らされた。「負けたのか、がっくりという思い。まだ子どもだった」。軍事教育の爪痕はすぐには癒えない。落胆の思いは募った。一方で世の中は激変する。国粋主義から180度転換し、政治を批判する教師が出てきたり、主従関係のような上級生との関わりは軟化した。授業も一変し教練などによる軍隊生活はなくなり、実習が増加。教科書もなければ物資もない貧しさだったが、本来あるべき教育の姿がそこにはあった。駐在所で補助員を担っていた父親は終戦でその役目を終え、ホッとした様子を見せていた。平和は、人々の生活を着実に照らしていった。

 終戦から73年。争いは絶えず、世界では今もどこかで小競り合いが続く。その原因を、国同士の勢力争いに見る。「勢力を広げようとするから摩擦が起きる。満州まで国土を広げた日本がそうだった」とし、「軍隊生活のような時代を繰り返してはならない」と訴える。あの戦禍から何を学び、どう生かすのか。その姿勢が次代に問われている。


 

さがみはら中央区版のローカルニュース最新6

自転車レース 市内を疾走

ツアーオブジャパン

自転車レース 市内を疾走

5月25日 「迫力を感じて」

5月23日

85種が可憐に

相模原北公園

85種が可憐に

観賞は6月いっぱい

5月23日

アウトドア仕様で賑わう

アウトドア仕様で賑わう

レクサス相模原が5周年

5月23日

「自然の恵み」味わう

ギャラリー誠文堂

「自然の恵み」味わう

6月1日まで 生方美夫展

5月23日

永田屋がトップ10入り

永田屋がトップ10入り

25年卒版 就職ランキング

5月23日

けやきの会が届ける舞台

けやきの会が届ける舞台

6月1日あじさい会館で

5月23日

あっとほーむデスク

  • 4月6日0:00更新

  • 3月30日0:00更新

  • 3月23日0:00更新

さがみはら中央区版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年5月23日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook