三浦の散歩道 〈第49回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
金田湾を後にして、県道上宮田・金田・三崎港線215号の坂を上がり、松輪に入りました。坂を上がりきった所にガソリンスタンドがあります。西方からの「軍道」と言われる道との交叉したところでもあります。バス停「松輪」より手前の曲角(まがりかど)に「ヤマザキショップ」のコンビニがあります。ここも三叉路ですが、「松輪間口(まくち)漁港」の標識に従って曲がります。3百メートル程歩いて行きますと「歓迎・ふれあいの海・大浦海水浴場」の看板と「歓迎・ようこそ三浦の民宿へ!」の大きな看板が目に付きます。道の反対側には「関東ふれあいの道」の標識に「三浦岩礁のみち」と書かれ、さらに「間口へ1・1キロメートル」ともあります。また、「ここは勝谷原」とあります。
今回は、そちらへ曲がらず直進します。3百メートル程ゆるい坂を下って行きますと、道は左へと曲がります。と同時に右へ下る道もあります。とりあえず、左へ少し歩を進めますと、すぐに右手に上がる道がみえます。「三浦市明細地図」の151頁を開いて見ますと、「鳥居」の図が書かれています。お宮さんが在るのかと思って、上がって行きますと、そこは「地蔵堂」でした。浜田勘太氏が『南下浦の歴史探訪記』で述べておられる「中山の地蔵堂」なのです。堂の手前に「馬頭観音」の石塔が3基、江戸時代末期のものと言われています。堂の入口には紅白の布に覆われた緒が付けられた「鰐口(わにぐち)」があります。明治時代の物で、「惣左エ門銘」があるとのことです。堂内には石の地蔵尊が4体祀られています。中には宝暦年間(1751〜63)のものもあるとのことです。浜田氏の書によると、「『タロベエ』家の鬼門除けに建立されたと伝えられている。」とあります。この辺りは「柳作(やなぎさく)」と呼ばれる地区です。
道を少し戻り、右手の坂を下って行きます。「遠津原」と呼ばれる谷戸が海辺まで続いています。大根畑の道を進んで「遠津山」と呼ばれる地へ、やゝゆるい坂を上がって、道を右へ曲がりますと、開けた台地へと出ることができます。遠く、東京湾を隔てて房総の山並みがはっきり眺められます。左手に「鋸(のこぎり)山」、右手に「富山(とみさん)」が望見できるこの地は、まさに絶景です。東京湾沿いに、太平洋戦争の当時いくつもの「戦争遺跡」があるように聞いていましたが、ここに、それが遺されています。高射砲の砲座と思われるコンクリート製の円形のものが2箇所、地下壕の入口と思われるコンクリート造りの壁が一部そのままになっています。さらに北へ歩を進めますと、半分以上が土に覆われた大きな建造物に行き当たりました。何んだろうと思いましたら、『東京湾要塞史』(赤星直忠著)に、次のようにありました。「雨崎と大浦山との中間にある台地通称とうつ山に十五加砲塔二基(四門)が約百米(メートル)距てて配置、西側の山腹に地下道入口が開いている。この北方通称あかやに探照灯庫があり」とあります。まさに、その「探照灯庫」だったのです。つづく
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