第18回「小和田」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
江戸時代、小和田村と菱沼村は入り組んでいました。大山道に近いあたりが菱沼村、東海道(国道1号)の両側から海までが小和田村だったようです。
鎮守の熊野神社の境内に祀られている姥(うば)神社と尾根明神社(おねみょうじんじゃ)は、市内の他の地域では見られない祭神です。拝殿右側に、石に彫刻された髪の長い姥神が祀られています。子どもが風邪をひいたとき、お茶を供えて治してくれるよう祈ったといいます。尾根明神は、拝殿左側の石碑にその名があります。『皇国地誌』に元は姥島にあったが風波で何度も壊されるので、元禄の頃(1688〜1703)「ツト田」(菱沼三丁目の辺り)に移したとあります。
また、『風土記稿』に「海浜に砲術場あり」とあります。江戸幕府が鉄砲の演習をした場所です。その範囲は現在の藤沢市片瀬、鵠沼、辻堂の各村と市内小和田村から茅ヶ崎村の海岸砂丘にまたがる広いものでした。『茅ヶ崎市史』には設立の享保13年(1728)以後21年間は毎年、江戸後期は不規則に演習が続けられたとあります。明治になると鉄砲場に代わり、辻堂、小和田の海岸が横須賀海兵団演習地となり、終戦までは頻繁に訓練が行われ、戦後は米軍の演習が行われました。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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