茅ヶ崎の轍(わだち) 第44回(後編) 道編「小和田・菱沼地区の道」 協力/茅ヶ崎市文化資料館
浜道(はまみち)
戦前まで、小和田地区には東海道を挟むようにして、元船(もとふね)・仁井網(にいあみ)・西網(にしあみ)・裸網(はだかあみ)・小網(こあみ)・徳網(とくあみ)・新網(しんあみ)の7つの網元があり、小和田の浜で地引き網を盛んに行っていました。それぞれの網元は曳子(ひきこ)(網を掛けたり、引いたりする漁師)を抱え、漁を行うときは、地域ごとにそれぞれ3本の浜道を通り、浜へと向かいました。
網を掛けることを「一くら」、「二くら」といい、天候や潮の様子で一日に何回も網を掛けました。網元は、捕れた魚をかごに入れててんびん棒で前後に担ぎ売り歩くボテイ(ボテフリ)と呼ばれた商人や、仲買人などに浜で直接売りさばき、漁獲が多いイワシがさばききれないときは浜で干してホシカにし、肥料として農業に利用していました。
大漁のときはお稲荷様に供える魚を持った曳子が2〜3人の組になり「ヨゴウ」とか「カケヨ」といった掛け声を掛けながら浜道を駆け足で戻って行きました。浜道の近くに住む人たちは、この声を聞いて大漁を知ったそうです。このとき供える魚をカケヨと称するのは「掛魚(かけうお)」が変化したもので、漁で揚がった魚をお稲荷様に奉納するため、魚のエラにわらを通してつるす姿にしたものをいいます。
【参考文献/茅ヶ崎市史】
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