市内で不動産業を営む株式会社古木ビルで、約90年前の平塚駅前の地図が見つかった。地図には、現在のバスロータリーに晴雲寺という寺院があったことや、駅前を中心に旅館が点在していたことが記されている。
市博物館によると、この地図は1925年(大正14年)11月に都市調査協會が作成したもの。平塚駅前も壊滅的な被害を受けた関東大震災(23年)の2年後のもので、「地形図ではなく、商店などが表記された地図は貴重なもの」と学芸員の早田旅人さんは話す。
地図では、同じような長細い短冊状の商店がずらりと並んでいる。これは江戸時代に、間口の広さによって課税されていた名残で、商店主は少しでも税金を安くするため、間口を狭くする代わりに奥行きのある建物にしたという。大通りに面する部分が狭く、その分たくさんの商店が並んでいるのがわかる。
当時の主な客は、海軍火薬廠に勤めている軍人や、そこに品物を卸している商人、近隣の農村からくる人々だった。大山参りの玄関口としての役割も担っていたため、駅前に点在する旅館は、大山へと出発する参拝客でもにぎわいを見せたという。交通網の発展にともなって大山参りの客も減り、戦後に軍人や出入りしていた商人がいなくなると、しだいに旅館は衰え、店を閉めていった。
商店に取り囲まれていた晴雲寺も、45年の平塚大空襲で全焼し、戦後の復興都市計画によって現在の立野町に移転することになる。当時のまちを語る資料の多くは消失し、晴雲寺でも船越観世音菩薩1体が残るだけだ。震災や戦災を経ても、商業のまちとして復興してきた平塚。宿場町として栄えた江戸時代から、絶えずあった人の流れや活気が、商店が所狭しと並ぶ地図から感じられる。
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