市内豊田小嶺出身で中国に初めて社会主義思想を紹介したとされる福井準造の没後80年を記念して、北図書館(丸島隆雄館長)で小さな展示会「知られざる福井準造 社会問題研究者から農政家、政治家へ」が開催されている。4月16日(日)まで、準造が執筆した『近世社会主義』などの原書が展示されている。
準造は1871年(明治4年)に豊田の小嶺村の地主の子として生まれた。18歳で上京して慶応義塾で英文学を修め、22歳で卒業後、小作人を抱える地主という立場から、ヨーロッパで流行していた社会主義思想に危機感を持ち、いち早く研究に取り組んだ。99年に出版した『近世社会主義』は中国でも翻訳され、社会主義を紹介した一番古い文献として同国に評価されている。
平塚が県内でトップクラスの生産量を誇る稲作からも、準造の功績をうかがうことができる。準造は1902年、神奈川県農会幹事になったのをきっかけに、農政家として活躍。「米の増産には耕地整理が必要」と訴え、地元豊田で実践した。当時は小規模な田んぼが不規則に散在していたが、現在のように升目状に区分することで、水路の確保や収穫の効率化を図ることの重要さを訴え、翌年に県内初の耕地整理を完成させた。隣の大野地区の歴史が記されている『大野誌』では、「近村の模範となり、初期整理方法の模式的なものとなった」という記述もある。
08年には衆議院議員となり、帝国農会の創立委員など農政に携わった。政界引退後は豊田に戻り生活。関東大震災では、蔵をあけて米俵を取り出し、近所の人を集めて炊き出しを行うなど、篤志家として地元民に愛され、37年12月10日、66歳で生涯を閉じた。
孫の福井榮一さん(85)は、「家族がごはんと味噌汁の朝食を食べているのに、祖父はハムエッグにトースト、大きなマグカップでミルクティーを飲んでいた」と、ハイカラな祖父との思い出を懐かしむ。
都内で暮らしていたという榮一さんに宛てた準造からの手紙は、今も50通以上残る。書き損じたハガキに炭を塗り再利用していたり、何かの招待状を使い回していたりと倹約家な人柄がにじんでいる。「ハイハイは達者か」と、孫の成長を伺う挨拶から始まる文章は「とよだのおぢーちゃんより」という一文で締めくくられ、「祖父が亡くなった時、私は5歳だった。記憶に残っている思い出は僅かですが、手紙の量からかわいがってもらっていたとわかる」と笑顔で話していた。
平塚人物史研究会のメンバーでもある丸島館長は「全国的にも大きな功績を残した人物が平塚にいたということを、たくさんの人に知ってもらいたい」と話していた。
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