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日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯町の歴史をつくった人達 〈寄稿〉文/小川光夫 No.54

公開:2011年1月1日

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54 枢密院での憲法改正の審議

 日本国憲法草案については、総司令部がその草案を国民に発表することを急ぎ、事前に枢密院に知らせなかったことから、1946年3月20日に幣原内閣は非公式に枢密院で説明を行うことにした。しかし、天皇が諮詢の手続きを4月17日にとったことから、幣原はその日に枢密院で憲法改正の審議を行うことにした。諮詢を受けた枢密院では、議長の鈴木貫太郎らが協議して、審査委員会を設立し、潮惠之輔(うしおしげのすけ)委員長を中心に美濃部達吉、林頼三郎など12人の顧問官を割り当てた。審査委員会は第1回が4月22日に開かれ5月15日までに8回の委員会が開かれたが、政府側からは幣原首相、松本国務相、入江法制局長、佐藤法制局次長等が説明のために参加した。第1回審査委員会では、鈴木枢密院議長の挨拶、幣原首相の趣旨説明の後、松本国務相がこれまでの経緯について述べた。幾人かの質疑があったが、特に美濃部達吉の意見は他の委員を驚かせた。美濃部は天皇の憲法改正権(明治憲法第73条)はポツダム宣言の受諾により無効であるだけでなく、新憲法の前文に「この憲法は日本国民が制定する」としているのだから、当該草案を枢密院の諮詢にかけること自体疑問であるとした。また、彼は「ポツダム宣言には日本国民の自由に表明せる意思とあるが、この改正案は、勅令により政府が起草し、しかも議会には修正案も限られた範囲内でしか認められていない。かかる手続きはまさに虚偽といわざるをえない。明治憲法第73条は無効であるから、来る議会で特別に憲法改正の審議をする機関を設置すべきである」と主張した。それに対して松本国務大臣は、憲法改正は一刻を争う重大事件であり、そのような時間がない、と答弁した。枢密院の会議は秘密会議であったことから、枢密院事務官の要領筆記に頼ることになるが、それによると、その他に小畑西吉顧問官から「改正草案に対する修正の可否」、林頼三郎顧問官からは「主権の所在と天皇の法律上の地位」、「自衛権が認められていないこと」などについて質疑応答が交わされた、とされている。また幣原首相は憲法審査委員会の席上で、戦争放棄の条項に触れ、「戦争放棄と軍備の全廃は、総司令部から押しつけられたものではなく自分の信念である。中途半端な軍備は役にはたたない。国民が正しいと思っているように進んでいけば、徒手空拳(としゅくうけん=素手)でも何ら恐れることはなにもない」と述べている。1947年8月文部省も第9条「戦争放棄」に関して『新しい憲法のはなし』という冊子を発行し、「第9条は自衛のための武器さえも持たない」ことを子ども・児童達に伝えているが、しかし、その精神は米ソ冷戦の過程で失われていく。

 この改正草案は審査委員会の審議を経たのち一旦内閣に返されることになるが、5月15日に吉田内閣が成立したことにより、諮詢中の草案は先例により撤回されることになる。

 あけましておめでとうございます。いよいよ私の連載も2年目を迎えることになりましたが、今年も変わらぬご愛読の程、よろしくお願いいたします。

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