二宮ゆかりの画家 連載第16回 二見利節(としとき)・その生涯
利節は戦前作品を一点ずつ二宮小学校と二宮中学校に貸与していた。この度の個展に中学校の分を真っ正面に飾るために場所が空けてあった。突然二見がやってきて、「仲介の労をとったMの所に一緒に行ってくれ」という。Mと連れだって中学校に行くつもりである。用事があったので一人でMのところに行くように勧めた。二人は中学校に行ってその旨を告げた。
ところが中学校では校舎の改築とか、いろいろの事情があって絵は倉庫に仕舞い込まれていた。ベニヤ板に画かれた絵は雨もりがあったためか、見る影もなく廃物になってしまっていた。個展の飾り付けの計画は頓挫してしまった。それよりも彼を落胆させたことは、絵を粗末にされたことである。落胆は次に怒りに変わった。同じ町内のことなのでなんとか結末がついた。
小田原市立病院入院
昭和四十九年三月五日、激しい腹痛に襲われた二見は、友人の医師等と相談の結果、七日に小田原市立病院に入院した。乳癌と診断され、十三日左乳部の手術を受けた。一人暮らしの不規則の生活が、彼の体をむしばませたともいわれている。
妹八重子の連絡を受けた福岡の家族は、すぐにかけつけた。二見の喜びはたいへんなものだったという。三月二十五日に退院した。それ以後放射線治療のためバスを乗り継ぎながら通院が始まった。
第二回個展
この年四月二十八日から五月五日まで八日間、日動サロンで第二回目の個展「二見利節個展」が開催された。一昨年に続き二回目の個展である。前年中東旅行によって描かれた「ギリシャの壺の花」が招待状に描かれている。日動画廊の社長長谷川仁のあいさつ文は、次のとおりである。
牛が草を食むように間断なく絵を描き反芻を繰り返し続けている。しかし何十年、他に何一つ省みない、こういう変わった貴重な画家が今日もいます。
知る人ぞ知る二見利節氏は一昨年、日動サロンにおいて戦後はじめての発表展を催し強い反響を及ぼしました。その後もエジプト砂漠の奥地まで危険を知らずに踏み入り、自己の夢を追って描きためたり、四国地方の段々畠にすっかり執着したりしましたが、無理が祟って病に倒れ大手術を受けながら、なお平然と描き続けています。
今回第二回の発表を行うに当たって、それらの熱っこい収穫の中から精選した作品油絵約四十点を主に、作者の息吹きをよく伝えるパステル、手彩色エッチング等の興味深い仕事を合せてご覧に入れることになりました。ご来観の程お願い申し上げます。
日動画廊社長 長谷川仁
(つづく)
※「二宮町近代史話」(昭和60年11月刊行)より引用
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