連載 第3回 八重と蘇峰 徳富蘇峰記念館学芸員 塩崎信彦
反感から和解へ
同志社英学校の校長夫人となった新島八重を、空想上の動物”鵺(ぬえ)”に例え、蔑んだ生徒が誰あろう、徳富蘇峰でした。尊敬する師・新島襄を”ジョー”と呼び捨てにし、夫より先に人力車へ乗り込み、着物姿に靴や帽子といった滑稽な格好をした夫人を、男尊女卑思想が強い熊本出身の蘇峰は許せなかったのでしょう。しかし14歳の蘇峰の戯言を、31歳の八重は軽く受け流します。
明治23年、新島襄が47歳にして大磯で客死すると、臨終の場で蘇峰は八重の手を握り、過去の非礼を詫びて「これからはあなたを襄先生と思って付き合うので、あなたもそのつもりで接して欲しい」と伝えます。
この日から41日後、八重から蘇峰への記念すべき1通目の手紙が記されます。蘇峰はその言葉通り、独り身となった八重を物心両面で支えます。後に貴族院議員となった際には、その給料袋の封を切らずにそのまま八重に手渡し(『徳富蘇峰』早川喜代次著より)、また同志社に掛け合って、八重が引き継いだ新島邸を元に年金交渉を行うなどしました。当館に残る6通の手紙の中に、八重の蘇峰に対する感謝の念のほか、二人の親しい交流を物語るエピソードを随所に見て取ることができます。
さて、余談となりますが「八重の桜」のドラマ制作において、光栄なことに当館からもいくつか資料の提供をしています。「蘇峰の肖像写真」(第40話)と「雑誌『国民之友』」(47話)、そして「民友社の看板」(47話)がそれで、この3点をご覧になりたい方はぜひ、二宮の記念館に足をお運び下さい(当館のフェイスブックでも紹介する予定です)。
徳富蘇峰記念館の学芸員・塩崎信彦さんが新島八重と蘇峰について4回シリーズで紹介しています。
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