大磯歴史語り〈財閥編〉 第69回「浅野総一郎【19】」〈敬称略〉 文・武井久江
浅野総一郎は、明治18年(1885年)頃、渋沢栄一に「ご一緒に、ビール工場を作りませんか」と持ち掛けました。丁度、新政府が立ち上がる時で、明治維新で新時代になり、ちょん髷を切り落とし、生活スタイルも大きく変わり始めました。ビールを飲むことが急速に拡大すると思ったのです。渋沢は、慶応3年に随行員の一員として、欧州を廻った時の経験から、ドイツに立ち寄った時、ビールを飲むドイツ人を多く見かけ、渋沢自身も、飲んでみたところ日本酒に比べれば、それほど酔わないお酒で、きっと日本人にもはやると思ったと語りました。
ビール工場の共同経営を決断し、東京近郊で適当な土地を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。そんな時、ニュースで旧知の大倉喜八郎が明治19年に北海道開拓使麦酒醸造所の払い下げを受けたという話です。この醸造所は、「札幌ビール」を製造販売していましたが、当時の北海道庁長官・岩村道俊は本土の資本を北海道に呼び込むために工場払い下げを表明していました。総一郎と渋沢は、新たな土地を探すより大倉との共同経営の方がいいとの結論に達し、又大倉も、2人を巻き込んだ方がリスクが少ないと考え、3人が中心となり「札幌麦酒」の設立となりました。
明治21年に正式に認可を受け発足したのが、今のサッポロビールのルーツです。後に、札幌麦酒は、エビスビールを販売する日本麦酒と、アサヒビールを販売する大阪麦酒と合併し、大日本麦酒となっていきました。本業であるセメント業も順調で、忙しくなるばかり、当然妻であるサクも忙しくなります。
年内で、浅野総一郎を語り終えたいと思っていますが、それにはどうしても妻のサクの話を無くしては語れません。サクのお気に入りの言葉が「一心」、心を集中する相手は総一郎です。
本当に一心な人でした。彼女は最初の出産が19歳の時で、42歳までの間に12人を出産、庶子の子1人を引き取り13人の子育てに追われ、残念なことに2人の子を幼くして亡くしますが、それは凄い働きぶりでした。夫と共に働き、子育てが終わった頃から、サクの優しさは、身内だけでは有りませんでした。亡くなってから判明したサクのもう一つの顔が、慈善家としてでした。
両親を早く亡くして苦学している学生への援助を始めとして、新聞記事から困った人を見つけては、匿名で援助をし続けました。サクが寄付した人は、数千人に及んだと言います。次回にも、もう少し語らせて下さい。
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