震災忘れず、前に 復興「まだまだこれから」
3月11日で東日本大震災から2年が経過した。宮城県亘理(わたり)郡亘理町で被災し、市内に移り住んだAさん(55・女性)は秦野を終の棲家にした。しかし故郷の復興状況は気に掛かり、毎月、亘理町役場から「広報わたり」を取り寄せている。
宮城県亘理町に住み、海からわずか200mほどの距離にある5階建ての温泉宿泊施設に勤めていたAさんは、勤務中に被災。襲ってきた大津波を施設の上層階で目の当りにした。
その後救助され、同町の実家にいる親族と話し合い、神奈川にいる息子の「心配だからこっちで一緒に住もう」との言葉もあり、転居を決意。家を購入し2011年7月に秦野に来た。
地面が見えるほどの引き波
2年前のあの日、退勤間近のAさんは団体客を送り出し、「もうすぐ終わるね」と同僚と話していた。午後2時46分地震発生。Aさんたち従業員はとっさの判断で利用客数名を安全と思われる4階へ誘導。従業員を含む約40人は海に面した窓際を避け、壁側に避難した。
今まで見たことがないほどの引き波を「漁港の地面が見えるくらい」と話すAさんは、地震の大きさ、引き波から「大津波が来るとわかっていた」と振り返る。
程なく第1波が到達。しかし、引き波は第1波を上回る大きさの第2波も連れてきた。沿岸の防風林は津波にのまれ、1階部分に突き刺さった。Aさんたちは只々手を繋いで見ているしかなかった。「ああもうだめかな」と思ったという。
2日後、SOS届く
Aさんたちは「すぐに救助は来ない」と長期戦を覚悟し、役割分担した。当時を克明に記したAさんの手帳には「単独行動・外出禁止」の文字がある。幸いにも宿泊施設のため食料と水はあった。屋上に「SOS」や「ここに○人いる」とシーツで示し救助を待った。
同施設で二晩を明かし、13日の朝、自衛隊のヘリコプターが救助に来た。その後、実家で家族と再会した。Aさんは「色んな人がボランティアに来て、物資もたくさん届いていた。本当にありがたかった」と話した。
秦野「住むところだから知りたい」
勤めていた施設も休業となり、職を失ったAさんを心配した息子が手を引き、現在は市内で母、息子、娘の3人暮らし。Aさんは秦野を「気候も温暖で住みやすい」と話す。
たばこ祭の花火観覧や、市内団体主催のイベントなど、招待を受けたものにはできるだけ参加。また、南はだの村七福神と鶴亀めぐり、公民館の料理講座にも足を運ぶなど、これから住み続ける土地に積極的に馴染もうとしている。「住むとこだからもっと知りたい。道がまだまだ分からないからすぐ迷子になってしまう」と意欲と悩みを話した。
実家は果樹園のAさん。近所で梨を栽培している人と栽培方法で話をすることもあるという。
それでも生まれ育った亘理町のことは気に掛かり、毎月発行される「広報わたり」を亘理町役場に依頼し郵送してもらっている。町内の復興状況や、亘理町であった話題など、故郷からの便りに隅々まで目を通しているという。これまでの帰省を思い出し、広報わたりを見て「復興予算がしっかり使われていて欲しい。行くたびに少しずつ良くなっているが、復興はまだまだこれから」と話した。
Aさんが勤務していた温泉施設は現在、がれき処理業者の寄宿舎となっているが、2014年の再開を目指して改修作業にも取り掛かっている。
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