長崎の原爆
私は7才まで長崎の平和祈念像が建つ原爆中心地に住んでいました。空襲が激しくなり、今年、世界遺産の登録が決定した話題の軍艦島近くの島へ疎開しました。友だちと遊んでいると突然空が真っ赤になり、辺りが急に暗くなりました。その時、原爆が投下されたのです。終戦直前の8月9日でした。長崎の中心を流れる浦上川には放射能を全身に浴びた人たちが水を求めて息絶え、川は人で埋めつくされたそうです。私たちは少し離れた島に疎開していましたが、放射能で汚染されたであろう海で毎日泳ぎ、島で獲れた魚を毎日食べていました。疎開前まで通っていた小学校は焼きつくされ、同級生もほとんど助かりませんでした。小学校では毎日犠牲者の方々を運動場で荼毘に伏したそうです。年月が立ち、被爆2世、3世が苦しむ姿を目の当たりにして来ました。40年は長崎には草木も生えないと言われて来ましたが、現在は立派に復興し、1度は行ってみたい街 長崎となっています。この地球上から悲惨な戦争をなくして行くのは、私たち大人の責務だと思っています。
■堀西 今野佳子(77)
猫と空襲
私は16才の夏、鶴見で終戦を迎えました。蒸し暑い夜空に突然、サイレンと同時にB29の爆撃を受け、見る見るうちに京浜工業地帯、潮田方面に火の手があがった。黒い煙と民家の火柱が空に舞い、赤々と空に燃え広がるのを見て母と外に出た。道は逃げて来る人たちで溢れ、大八車に布団と子どもを乗せ歩いて来る人、赤児を背に子どもの手を引っ張るように歩いて来る人、追いかける様に不気味な音がし、初めて恐怖を感じ恐かった。あっちだ、こっちだと人の波に押され母を見失う。思うように足が動かない。その時、猫が飛びついて来た。震えており、胸から落ちまいと夢中だった。思わず私は「怖い、早く逃げよう」と声を掛けながら歩き続け、やっと總持寺の裏山に着いた。そこは人の群れで溢れ、大丈夫か無事かとの声が聞こえた。そこで母と会え、涙が出た。生い茂った草の上に母と足を伸ばした。猫は膝の上、母は初めて「怖いね」と一言言った。空は消える事なく赤かった。
■緑町 小河内千恵子(88)
父の歴史
父が、給料が内地の2倍の北京に出稼ぎに行ったのは、まだ19歳の昭和15年のことだった。南満州鉄道(満鉄)の孫会社で用品経理係を務めた。昭和16年頃から、北京にある日本の中規模以上の企業では、続々と青年隊が結成され、体力増強や戦時意識の高揚が図られたそうだ。昭和19年2月、父はついに召集を受けた。会社では壮行会を開いてくれ、青年隊の女子隊員が街に立ち、千人針を縫ってプレゼントしてくれた。死線を越えるよう、五銭玉が縫いつけてあった。親族からは、手製の日の丸の旗が贈られた。「武運長久」と墨書きされていた。入隊後、父は幹部候補生に合格した。その教育は実践教育で、敵の八路軍の兵舎を目標に定め攻撃するものの、敵陣に着いたころはもぬけの殻で、実際に交戦したことはなかったのは幸いであった。伍長まで昇進したが、左湿性胸膜炎となり、内地に送還され、終戦を迎えた。父は日中友好の文通活動に熱心に取り組んだが、亡くなって6年経つ。
■鶴巻北 八木実(66)
〈写真提供/秦野市ほか〉
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