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秦野版 公開:2015年10月17日 エリアトップへ

特別企画 戦後70年 記憶をつづる 〜寄せられた手記から〜

社会

公開:2015年10月17日

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平塚の空襲炎が津波のように

 東の夜空を茜色に染めている。頻繁になってきた空襲。そして7月16日、B29はとうとう平塚の上空に不気味な爆音をたてながら近づいてきた。雨戸を開けると前の工業学校は早くも照明弾が投下され真昼のようだ。早く逃げなくては。弟に貴重品を背負わせ、弟妹たちを芋畑に避難させ布団をかぶせた。「ひどくならないうちに少し荷物を出そう」と母。母は柳行李(やなぎごうり)、トランク、鍵のかかった箪笥の引き出しをこじあけ縁側まで、私もそれらを運び出し芋畑に分散しておく。学校も火の回りが早く燃え上がっている。夢中になっていたので焼夷弾が投下されているのも気がつかなかった。「焼夷弾が!」と母の声に上空を見ると弟妹たちの頭上に。しかし距離がだいぶある。流されるから、すぐ上に見える時は動かないほうがいい。「動いちゃだめ!」。焼夷弾は数メートル先に落ち、青い炎を出していた。ふと気がつくと、父の姿が見えない。ひとり懸命に消火していたのだ。我が家に焼夷弾が一発命中。屋根に突き刺さり、栓が天井板を突き破り、突き刺さった焼夷弾は火を噴き出し、襖に畳へと燃え移っていたのを、襖の火は叩き消し、畳は庭へ蹴り出して。我が家は南に学校、東には専売公社と大きな建物はあるが、樹木に囲まれた畑の中の一軒家だったので、類焼の心配は無いだろうと思っていた。ところが専売公社の倉庫のひさしをねずみ走に火が走っていく。最後まで残っていた守衛詰所に火の手があがり、上空に舞い上がった。急に風が出てきた。巨大な炎が津波のように我が家めがけて押し寄せ引き返していった。もうだめだと一瞬目を閉じる。ところが家は焼けなかった。そうだ、樹木が炎から守ってくれたのだ。「良かった、ありがとう」と思わず樹木につぶやいた。芋畑が青い炎を出しながら燃えている。夜が明けてから見ると、そこはポッカリと大きな穴を開けた焼夷弾の釜の落ちた跡が2か所、屋敷内には何発か不発弾もまじっていた。5、60発もあっただろうか。そして前の道路には4、5列横隊にバラまかれていた焼夷弾の跡が。これらが我が家に命中していたら、いや私たちの頭上に落ちていたら。身の毛がよだつ思いだった。運が良かったのだ。命中した1発も天井板が抜け落ちなければ、天井裏に火が回っていただろうから。両親は隣組の人たちの安否確認に出かける。友人は防空壕に入っていて家が焼けたのも知らなかったと、皆焼け出されたが怪我がなく無事で良かった。どこも一面の焼け野原になってしまった。区長さんは防空壕に入ろうとした人の危険を感じ、危ないと両手を上げた際に焼夷弾が落ち亡くなられた。遺体は各家庭から持ち寄った薪で荼毘にふされたと母から聞かされた。昼間の空襲も多くなってきた。そのたびに焼け残った家めがけて機銃掃射だ。操縦者の姿も見えるぐらいの低空でやってくる。まるで屋根すれすれのような爆音、ところかまわず撃ちまくっていく。生きた心地はしない。空襲から数日経った頃からバアン、ボオンと破裂する音が学校から聞こえた。軍が保管していた鮭の缶詰の山からだ。空襲で焼けたうえ、真夏の炎天下、膨張した缶の破裂音だ。まだ軍には豊富な食糧があった。1軒に1缶ずつでも配給があったらと思った。庭や道路も掘りおこし、芋1本でもと慣れない手つきで鍬をふるった。1枚ずつ減っていく着物。農家に持って行って穀物に替える大事な命綱なのだ。毎日の食事は米粒を探す水ばかりの雑炊、いや米粒があれば良いほうだ。ご馳走だった。芋のつるや南瓜の葉、食べられる物はなんでも食べた。そして1か月後の8月15日、天皇陛下の玉音放送が。雑音ではっきり聞き取れないが戦争が終わったようだ。長く辛い戦争が終わり、ホッとした安堵と複雑な気持ちが蘇ったのは私だけだったろうか。あれから70年、平和な日々に戦争は2度とあってはならない。この戦争で多くの犠牲者のいることを忘れてはならない。我が家でも姉は北支からの引き揚げ途中で亡くなり、兄も長いシベリア抑留の後遺症で健康にならず亡くなる(終戦後4年過ぎ、やつれはてやっと帰ってきた)。

■南が丘 平田佐千子(87)

15歳で不発弾処理隊員として活躍

 中郡比々多村国民学校高等科(現中学2年)を昭和19年3月に卒業、4月に平塚市にあった海軍火薬廠(しょう)養成所に入所、ここを卒業(旧中5年卒担当)した私は、同廠研究部に配属され海軍二等実験員・不発弾処理隊員となった。隊長は水島容二郎海軍技術大尉、隊員は10名ほどだった。アメリカ空軍により投下された爆弾・焼夷弾の中5%ほどは不発弾であったといわれている。不発弾処理方法は、大型油脂焼夷爆弾(50kg)は信管を取り外して安全にし、小型焼夷弾(テルミットマグネシウム弾2kg)と一緒にリヤカーに乗せて、花水川河口や平塚海岸に運び、そこで焼却処分や海への投棄処分を行った。廠内の不発弾と市内各所の不発弾を処分し市民からも喜ばれた。その数1000発以上。50kg以上の大型爆弾は、横須賀鎮守府から派遣された兵科出身の不発弾処理隊が行った。昭和20年7月16日夜、平塚市はアメリカ戦略爆撃機B29 130機による大空襲をうけた。当夜宿直だった同年令(15歳)の仲間のうち、射撃手井沢勝君は廠内機銃砲台で必死に応戦。また海軍従軍看護婦足立フサ子さんらは、海軍病院(現平塚共済病院)から伊勢原分院(現伊勢原協同病院)へ、暗夜の中、負傷者を担架にのせて避難させた。戦争は駄目だ!平和に感謝しよう!数百万の犠牲者のご冥福を祈ろう!

■北矢名 神戸良造(85)

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