奪われた学生生活そして あの日
昭和20年5月29日。朝から警戒警報に空襲警報、急いで防空頭巾を持って工場に向かった。私たちが動員されていた工場は、京浜急行沿線の富岡兵器で、東北方面から来た挺身隊の若者と学生が大半だったようだ。私の仕事は20ミリの機関砲の薬莢(やっきょう)に火薬を入れる仕事。量が多すぎると早く爆発してしまうし、少なすぎると不発弾になってしまうと脅かされ、天秤秤(てんびんばかり)とにらめっこの毎日だった。50本ほどの薬莢立てに火薬が入れ終わると、次の学生が挺身隊の男の人の所に運ぶ流れである。ある日、薬莢と鉛の先端の部分を接合する仕事をしていた職工さんが、あやまって自分の指を鋏んでしまい一本の指を失った。その場面は今でも忘れることが出来ない。さて5月29日、工場では学生は地下の食堂に避難させてくれたが10時になっても11時になっても解除されず、不安の時間を過ごしていた。12時近くだったろうか。係長さんが食堂に来られ、「横浜は殆ど焼失しました。気をつけてお帰り下さい」と言われ乾パンを一袋ずつ渡された。驚いている間もなく各自夢中でそれぞれの家の方向に歩きはじめた。まだ煙と火の粉の中を私は保土ヶ谷方面に。道端の防火用水に防空頭巾をひたし窒息を防ぎ、黄金町の山にさしかかった時、目に入ったのは、市電の焼けた外枠とその下に逃げ込んだ多くの死体だった。まるでこけし人形のように頭と体だけが真っ黒に焼きただれて、まだ煙が立ちのぼっていた。防空頭巾で口を押さえ、夢中で死体の間をまたぎながら保土ヶ谷駅前の我が家へ急いだ。家はなかった。「妙子!生きていたか?姉の家にいる。早くおいで」。父の立て看板が煙と灰の中にスックと立っていた。
■南矢名 杉山妙子(89)
あの日のこと
昭和13年東京板橋生まれ。小学1年、給食の味噌汁鮭入りをバケツで運んでいると空襲警報のサイレンが響いた。味噌汁を手放し机の下に潜ったあの日。昼にはアメリカの飛行機が偵察。3月の大空襲、炎に囲まれながら布団を頭に焼夷弾の舞い落ちる中を、死を覚悟で夜を明かした。戦いのない平和な日々を祈る、私は今77歳。
■曽屋 志村広子(77)
機銃掃射と終戦の日
昭和20年、戦争は激しくなり、警報が発令されると西小の生徒は先生に引率され西側の棟(当時落葉樹平地林)へ避難、頭上を東へ向けてB29が何百機と通過するのを待つのが常となった。そんな2月下旬、私は弟と2人で渋沢下山(栃窪から震生湖へ行く道の北斜面)の麦踏みをやっていた。突然黒い戦闘機P51が急降下してきた。ダダダダダ。日本鍛工(現南中学校)へ向けての機銃掃射。弾丸がそれ、畑が土煙をあげた。私は弟と近くの林の落葉の中へ潜り込んだ。音がやんで顔を出すと、隣のおじさんがタバコ苗造用の落葉を集めながらニッコリ。8月15日午後2時近く。栃窪の道端の防空壕からスコップ片手に関野のおじさんが「君たちご苦労さん。戦争負けちゃった」と言った。当時西小では、薬草等を採って庭で干し9月1日に提出するのが夏休みの課題だった。渋沢の仲間5人で栃窪の東に向かう大井町の林へ。いっぱい採って腹減ったが栃窪集落まで辿りつき、玉音放送のことをおじさんから聞いた私たちでした。今思うと大人は口には出さず敗戦を予想されていた。防空壕を堀り進めなくていいと思われたのか、軍国教育に染まっていた私たちは啞然とするばかりであった。
■渋沢 伊東久(81)
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