ジェットエンジン 発祥地だった秦野 航空機時代の魁に
太平洋戦争末期、1機の戦闘機が木更津の空を舞った。初の国産ジェットエンジン「ネ20」を搭載した特殊攻撃機「橘花(きっか)」だ。このジェットエンジン(以下JE)が秦野市内で作られていたという事実を知る人は少ない。当時の資料を集め、調査をしている市生涯学習課文化財班の大倉潤氏は、「(開発者の)種子島時(とき)休(やす)氏は秦野を『ジェットエンジン発祥の地』と呼んだ。当事者の言葉だけにその意義は大きい」と記している。大倉氏が記した文献等から往時を辿る。
現入船町付近で極秘裏に開発
かつて、日本専売公社秦野工場(現入船町)の近くにあった北原倉庫(現曽屋2丁目)。その中で極秘裏に製造されたネ20。指揮したのは種子島時休海軍大佐だ。鉄砲で知られる種子島時堯(ときたか)の末裔で、横須賀海軍機関学校を卒業後、当時日本が世界に誇る戦艦陸奥に機関科士官として乗り込んだ。「姓が兵器に関係があるような気がして、海軍の新しい兵器を完成して見たい」種子島氏は陸奥の機関にあったタービンに入れ込む。その思いは数年後、航空隊勤務となった時、航空機のエンジンへ向けられた。
種子島氏はその後、東京帝国大学を卒業し広島県の広海軍工廠(こうしょう)航空機部の発動機班長に就任。ここで、後にJEを共に開発することになる永野治氏と出会う。
断面図が導いたジェットの姿
1941年、太平洋戦争が勃発。種子島氏は当時主流だったプロペラ機では達し得ない高高度飛行が可能なJEの必要性を上官に説く。翌年、JE開発専門の「研究第二科」が新設された。同科では、数機のJEを試作、改良した。しかし、タービン翼の亀裂、噴射弁のつまり等の不具合で結果が得られず開発者らは自信を失いかけていた。
1944年初頭、防共協定を締結していたドイツのJE研究が「かなり進みつつある」との情報が駐独武官からもたらされる。事実、ドイツでは大戦末期にJEを搭載した爆撃機を実用していた。巌谷英一技術中佐は、JE技術を本国へ伝えるべくJEの実機、縦断図面、飛行機の図面等を携え潜水艦でドイツを出航。急ぐためシンガポールで縦断面図と飛行機の図面一式等を持ち空路を取った。
1944年、巌谷氏が持ち帰った資料を見た種子島氏は「見たときに全部が了解できた」といい、独自に研究してきたエンジン原理は、「実用されているものと同じだ」と自信を持った。
戦況は悪化の一途を辿る中、海軍本部があった横須賀への空襲も激しさを増していた頃である。
技術少佐として加わった永野氏を含む、同科70人程は1945年4月、秦野へ疎開し開発することとなった。巌谷氏の持ち帰った図面を参考に、設計を見直し再開発に取り組んだ同科は、上層部の指令や戦況等により、ネ20を特攻機用として開発した。数点の不備を解決した2台は機体工場へ送られ、同年6月、橘花に搭載された。永野氏は飛行までの整備の間「無事に飛んでくれ」と心血を注いだ愛機を撫で過ごした。
安定の飛行感激の朝
同8月7日、快晴、木更津飛行場―。テストパイロットの高岡迪(すすむ)海軍少佐が操縦桿を握り、試験飛行には最適の条件が揃っていた。
午後1時、JE特有の快音とともに機体は始動。武器は積まず、最軽荷の機体。滑走路を800m程疾走し、前後に数回揺れた次の瞬間、離陸――。プロペラ機以外の国産飛行機が初めて空を飛んだ。橘花は東京湾上を一周、高度600mで約12分間の飛行に成功した。初飛行の様子を種子島氏は「全く安定した飛行振り」と振り返っている。
その夜、関係者で飛行成功にささやかな祝杯を挙げている最中「広島が原爆でやられた」との情報が入った―。翌日の夜明け前、永野氏は辛苦を共にした技師たちと橘花の格納庫上で朝日が昇るのを眺めた。戦局は芳しくなく、故郷の凶報を受けた永野氏だが「こんな感激の朝は二度とない」と仲間と語り合ったという。
秦野の美しい桜に涙
橘花初飛行の8日後、終戦を迎えた。初の国産JEという彼らの技術や思いを載せた機体は、ついに出撃することなく役目を終えたのだった。種子島氏は最後の訓示で「このような結果になったことは残念ではあるが、諦めるほかない。(中略)将来ジェット機時代はすぐ来ると思うが、日本でその最初の実験を成功させたのはわれわれであるという誇りを永久に心の底に焼き付けて、一生の思い出として貰いたい」と述べた。
種子島氏は戦後、石川島重工業(株)技術研究所等の顧問に就任し、防衛大学校、東海大学の教授も務め、1987年8月7日、奇しくも橘花が初飛行を成功させた同日にこの世を去った。
永野氏は石川島重工業(株)技術部長となり戦後初の国産JE「J3」を完成させた。同社副社長、相談役を経て1998年に他界した。
種子島氏、永野氏それぞれが遺した文献に秦野での生活が書かれている。食糧事情も厳しかった当時、種子島氏は蛋白質を補うため、アオダイショウをかば焼きにし試食してみたことや、永野氏が夜通し運転試験を続けた後、実験場そばの小川(金目川と葛葉川の合流地点か)のほとりで春の日を浴びながら眠ったことなどが記されている。
空襲の恐怖と充実した研究開発の日々に「感傷的になっていた」という永野氏は、専売公社の庭に群立していた桜の花が一斉に開花した美しい景観に思わず涙を流した。永野氏が姉に宛てた手紙には「爆弾が落ち、人の心がすさんでも黒い花や灰色の花が咲かないところに大自然の誠実さと慈悲がしのばれます」と書かれている。秦野で過ごした4カ月程の日々を、永野氏は文献の最後に「生涯の最良の思い出」と綴っている。
JEが製造されていた北原倉庫の場所は現在、住宅地になっており、当時の名を残すのは「きたばら児童遊園地」という公園だけだ。
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