日本国憲法の制定過程から学ぶ 吉田茂という人 〈寄稿〉文/小川光夫 No.67
吉田茂ほど傲岸無礼であるけれど、芯のぶれない政治家は数少ない。イタリア大使としてローマに赴任していた頃、その当時はムッソリーニの独裁政治が行なわれていた。吉田は信任の挨拶にムッソリーニのいる執務室に向ったが、当時、来客は30メートル歩いて挨拶することがしきたりとなっていた。ファシズムを嫌う吉田はわざと歩みを止めて、ムッソリーニを焦(じ)らして吉田の傍まで歩いてこさせた。吉田の高慢にも見える態度はこれだけではない。イタリア大使の後はアメリカ大使への政府からの打診があったが、それを断った。吉田は、アメリカはイギリスよりもランクが低いと感じていたようで、後にイギリス大使の要請があるとすぐに引き受けた。これに似たようなことは日本でも数多くある。
重光葵の代わりに吉田茂を外務大臣にしたのは評論家の岩淵辰雄と言ってもよい。戦時中、一緒に終戦工作をして憲兵に投獄されたこともあって、岩淵は近衛文麿に吉田を外務大臣にするように薦めた。近衛の荻外荘での四者会談を持ちかけ、閣議でも承認してもらい就任式までこぎ着けたのも岩淵のお陰であった。しかし、吉田からは何も連絡はない。岩淵が外務省大臣室に行って、直接吉田を祝福したがあまり色よい返事が返ってこない。その後、岩淵が「これで仲間は揃った憲法の改正に手をつけよう」というと、「それは大問題ですね。それは外務大臣の権限外ですね」と吉田は答えた。そのつれなさに岩淵は「外務大臣として言ったのではない。吉田という個人に言ったのである」と憤慨して述べた。普通の人間なら大臣にしてくれたことに感謝し、こちらから出かけてお礼の言葉の一言でも言うものであるが、吉田にはそんな常識は通用しない。また戦後の食糧問題と社会不安のなかでの労働攻勢は吉田にとっても大問題であった。共産党は食糧メーデーなどの大規模なデモを展開し、こうした動きに労働組合と日教組が加わった。これに対して吉田は、1947年の全国放送で労働組合を「不逞の輩(やから)」といって挑発した。
また、1950年に南原繁東大総長がアメリカに行って全面講和の演説をしたことに対して吉田茂は、社会党や民主党などの野党連合が永世中立を唱えており、南原東大総長も同じことを演説している。ああいう空理空論をいう人物を「曲学阿世の徒」というのだ、と述べた。これに憤慨した南原も「曲学阿世の徒とは、戦前の軍部が美濃部達吉博士など多くの学者に対して常用した言葉であって、学問の冒涜、学者への弾圧である」と激しい言葉で非難した。
言う方も言う方であるが、民主党の仙谷前官房長官が自衛隊を「暴力装置」と言って問責決議案が可決され民主党に動揺を与えたが、「吉田茂」はそんなことに動揺し怯(ひる)んでいなかった。吉田には日本を独立国家にし、経済回復を遂げるという大きな理想と強い信念があった。
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