多摩版 掲載号:2015年8月6日号
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「故郷に帰れる」「親孝行できた」 井上正吉さん(97)=関戸在住=

社会

 1940年(昭和15年)、兵役検査で甲種合格。東京連隊歩兵第一連隊に入隊した。「当時は、教育、兵役、納税が義務。『お国のために』。そういう教育だった。体も健康だったし、兵役検査を甲種合格できたのは名誉だった」

 当時、20歳だった井上さん。同じ時に兵役検査を受けたのは50人ほどで、そのうち、3分の2が合格したという。同じ郷土でも配属先はバラバラ。井上さんは兵役義務期間である3年のうち、無線電士として2年半を中国で過ごした。その後、帰国。農家の長男だったため、父親の手伝いをしながら生活を送った。山、畑、田、蚕。やることは多く、忙しかったという。「この辺りは貧しい地域。大学に行ったのは1人位だったと思う」と振り返る。

 それから半年経ったある日の夜。召集令状が届いた。「祖父母や両親は思うことがあったのかもしれない。でも赤紙が来たら、戦地に赴くのは当たり前だと思っていたので何も思わなかった」。出征の日、関戸駅(現聖蹟桜ヶ丘駅)には20、30人の見送りが来てくれた。

 向かった先は沖縄。井上さんは宮古島でも無線電士として軍務にあたった。戦局が悪化する中、食べ物はなくなり、死を覚悟することもあった。島の飛行場に米軍の戦闘機が落ちてきた時があった。すると他の米軍の戦闘機が墜落したパイロットを助けるために敵地まで降りてきた。「驚いた。度胸あるなと思うと同時に、相手は兵隊を大事にするんだ。人を見る目、兵力が日本とは違うと感じた」

 そして迎えた8月15日。「負けた。故郷に帰れる」。そう思ったという。米軍に投降。その年の12月、米軍の輸送船で横須賀に引き上げてきた。

 帰ってきたのは26歳の時。「この辺りは同じように出征して帰ってきた人が多かったように思う。物がなく厳しい時代。うちは農家だったからまだましだった。貧しくても与えられた故郷。安らぎがあった」。帰ってきてからは農作業に明け暮れた。米軍に接収された火工廠の弾薬処理に駆り出されたこともあった。「生きて帰ってこれたことで親孝行ができた。方法がなかったとはいえ、あの頃の日本は間違いだった」

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