三浦の散歩道 〈第63回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
毘沙門港から大乗(おおのり)への道は台地と谷(やつ)の間にあるためか、曲がりが多くなっています。木々に囲まれた道をぬけると畑が広がっている台地へと達します。その畑の中から「宮川公園の風力発電」のタワーが眺められます。ふだんは2基見られるのですが、ここからは、なんと重なって見えるのです。宮川公園に近い場所ですが、2基が1基に見えるのです。 道をさらに行きますと、曲がり角(かど)の所に次のような標識が立っていました。「首都圏剣崎岩堂山 近郊緑地保全区域 平成十二年三月設置 神奈川県」とあります。道路からの眺めでは、緑一色の畑が一面に広がっています。まさに「緑地保全」の姿です。
さらに道を進みますと、左側に「墓地」が見えてきます。墓石の年号に目をやりますと、古い墓は江戸期の天明5年(1785)や寛政10年(1798)の年号が見られました。この「大乗(おおのり)」地区では、「木村姓」が多く、他に「長谷川姓」もあります。
道は右へ曲がって、やがて、現在では使われていませんが、かつての「大乗児童会館」が見えて来ます。その手前に真新しい石塔が目に入ります。「立光山 海應●寺」と刻された立派な石塔です。平成22年に建てられたものです。その左手の古い石碑には「南無延命地蔵菩薩 第三十七番霊場」と「南無聖観世音菩薩第五番」の文字が刻まれています。
観音様は三十三態(たい)に応現(おうげん)(衆生を救うために時機に応じた姿となって現れること)すると言われています。この三浦でも札所が三十三ヵ寺設けられています。その5番目の札所がこの海応寺なのです。その御詠歌は「打つ浪も心のありて打つからは仏の教え仏堂が崎」とあります。この地、「毘沙門大乗」の「大乗」を昔は「青苔(ノリ)」と書いていたとの説があります。その「青苔」の海岸に、一体の観音像が波に揺られて、うちあげられました。近くの人々は、恐れ多いこととして、お堂を建てて安置したとのことです。『三浦古尋録』には「堂ヶ嶋正観音行基ノ作」とあり、『新編相模風土記稿』では、「観音堂 千手観音を置、堂ヶ嶋辺より出現せし像なり」と記しています。
浜田勘太著の『南下浦の歴史探訪記』によりますと、第十五世碩窓老師の執筆になる寺の沿革によると、開山は伊豆の国清寺の開山と同一で、応安2年(1369)に亡くなっているとして、当時は海岸にあったと言う。何れの頃か焼失し、元禄中(1690〜02)に現今の場所に移したと言い、次のように記しています。「青苔浜ヨリ岡地引上ゲシハ屋根梁木ニ札記名アリ」とあります。
つづく
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