三浦の散歩道 〈第54回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「松輪」のことは建武2年(1335)9月の古文書には「松和」とも記されていたという。その「松輪」で唯一の寺院「福泉寺」が現在地に本堂が建てられたのは文化13年(1816)8月であったと言われています。それまでは大浦海岸にあったのですが、今から三百余年の昔、元禄16年(1703)11月23日に起こったマグニチュード8・2の大きな地震による津波は、寺の隣の谷から上がったものが寺の付近で合流し、被害がさらに大きくなったと伝えられ、福泉寺には、その折の犠牲者十数人の過去帳が残されているとのことです。墓石の一部も波に持ち去られたと言われ、旧地を「開山堂跡」の名があると言われ、裏山が「千光稲荷」の社にあたるようです。
なお、昭和50年8月に報告された『元禄、大正関東地震津波の各地の石碑、言い伝え』(地震研究所 羽鳥徳太郎氏)によると、鎌倉では、「元禄津波は八幡宮二の鳥居まで上がり、光明寺に津波が入り民家が残らず流失した」とあり、これらのことから、津波の高さは8mと推定されています。ビルの三階部分まで達する高さでしょうか。また、関東大震災で三浦半島先端付近では1・5m〜1・8m隆起し、津波は5mの高さが観測され、波で房総が隠れてしまったと言うことです。
浜田勘太氏の書物によれば、「天保年間(1830〜43)の時点では、松輪の約90%が福泉寺の檀家となっていた」とあります。いかに大切な寺院であるかが理解できます。お寺のある一帯は「田鳥原」と呼ばれる地ですが、大昔縄文時代に人が居住していたのではないかと思わせる早期の土器群と黒曜石が出土しているとのことです。 お寺を後にして南側の坂を下って行きます。坂の右手には民家があり、左側は山裾で、処々に戦争中の防空壕と思われる洞穴が見られます。やがて、開けた広いところへ出てきました。現在では大根など野菜の畠ですが、以前は田圃(たんぼ)が続いていたのではないかと想わせる広々とした地形です。歩く右手側は丘陵地になっています。畠は左手側に広がっています。少し行くと、小さい川が流れているのにぶつかります。これが「田鳥川」と名付く川なのでしょう。
その川に沿って南に歩を進めます。歩く右の山側は「西谷戸」と言う小名ではないかと思っているうちに、左側の前方に朱色の小さな鳥居があり、すぐそばに赤い花をつけた山茶花も見えてきました。さらに近寄ってみますと入り母屋式の瓦屋根に白く塗られた壁の小じんまりした「稲荷社」でした。何という社かも分らずお参りをすませて歩を進めると、前方に白い大きな建物が見えてきました。近寄ってみると、「剣崎小学校」でした。まだ、どこの稲荷社か不明のまま歩いて行くうちに、道沿いの畑で仕事をしている人を見かけて尋ねてみました。その人は親切に「房作(ぼうづくり)」地区の「稲荷社」であることを教えてくれました。やっと得心して、バス通りの道へ出ました。
つづく
|
|
|
|
|
|