90年の生涯捧げた鎌倉幕府の立役者
平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた武将、土屋三郎宗遠の領地だった市内土屋で5月8日、墓前祭が開かれた。同祭は毎年行われており、約30人の「土屋三郎遺跡保存会」(杉山昇会長)のメンバーらが参加し、般若心経を唱えながら念仏鐘を鳴らして、土屋一族の墓前で手を合わせた。
同保存会には現在、地域住民を中心とした約110人が参加し、墓掃除や墓前祭の企画、歴史勉強会などの活動を行っている。土屋一族の墓が見つかったのは80年ほど前。戦時中に開墾作業をしていると、畑から次々と五輪塔のパーツのような石が出てきた。バラバラだったものをかき集め、土屋一族とゆかりのある大乗院の領地内に墓苑を作り、地元住民で守り続けている。
土屋三郎宗遠は源氏方の武将で、伊豆に流罪になっていた源頼朝が挙兵し大敗した「石橋山の戦い」では、市内真田の武将真田与一とともに加勢。戦いに敗れた頼朝が房州に逃げるのを助け、鎌倉幕府設立に尽力するなど、一貫して源氏方につき、90歳でこの世を去った。
鎌倉幕府3代将軍源実朝が、宗遠について詠んだ句を5つ残している。特に、『道とおし 腰はふたへにかがまれり 杖にすがりてここまでも来る』という句は、晩年も宗遠が鎌倉幕府を気にかけ、足を運んでいたことが伺える。「親兄弟でも殺し合うような時代。死ぬまで鎌倉幕府を支えようとする宗遠の人柄に魅力を感じる」と同会員は口ぐちに話す。
「この地区には土屋の姓を名乗る人が不思議といない」と杉山さん。「将軍が句を残し、30基にも及ぶ墓が作られるほどの人物の姓が地元に見られないのはおかしい」と調べてみると、江戸時代に書かれた相模国の地誌「相中留恩記略」で土屋一族について『今は水島を氏とす。』という一文が発見された。「たしかに、水島はこの地区に多い姓。鎌倉幕府が滅亡を迎えて、一族が生き残るために姓を変えたのかもしれない。新情報が出るたびに、思いを巡らすのはわくわくする。ロマンを感じる」と宗遠の生き様を感じさせる痕跡に目を輝かせた。
同保存会は2013年8月に、源実朝が読んだ句を刻んだ石碑を一族の墓苑近くに建立した。「自分のルーツを求めて、土屋という姓を持つ人が県外から訪れることもある。そんな人のためにも墓を綺麗に保ちたい」と杉山さん。「宗遠が残した地元の歴史資源を後世に伝えたい」と笑顔で話した。
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