「八幡さん助けて」と祈り
田村在住の吉川功さん(85)は平塚空襲時、宮の前で暮らしていた。父は国鉄品川駅に勤務し、母、兄、弟2人、妹2人の8人家族だった。
開戦時は第一国民学校(現・崇善小学校)3年生。真珠湾攻撃が行われた頃、担任教諭が教卓に肝油の缶を並べ、戦闘機に見立てて転がした。「『我が軍に向かう敵なし』と先生が教えてくれて、日本は強いなと思った」と吉川さん。地元出身の海軍飛行予科練習生が複葉機「赤とんぼ」で出身校を凱旋すれば「俺も先輩に続くぞ」と空を見上げた。少年にとって日本軍は「強い、かっこいい」と憧れる対象だった。
「空襲警報は日常茶飯事。そのうち解除されるだろうと、あまり恐怖は感じなかった」と吉川さん。そこに突然訪れたのが平塚空襲だ。7月16日夜、非番で家にいた父が、庭が照明弾で照らされているのに気付いた。近隣住民に田んぼに逃げようと声をかけられたが、東京で空襲を経験していた父はすぐに子供達を裏庭の土盛りの防空壕へ促し、吉川さんは2歳の妹を背負って飛び込んだ。防空壕の入り口にはトタン板が1枚あるだけ。「シュー」という焼夷弾が落ちる轟音をじっと聞いていた。「八幡さん、助けてよ」と必死で祈った。
夜が明け、防空壕の外に出ると1メートル先に不発の焼夷弾が刺さっていた。松原小学校のあたりの田んぼを一人で見に行くと、焼夷弾の直撃で亡くなっている人や建物の残骸がたくさんあった。「もしも父が不在で、近所の人に言われるまま田んぼに逃げていたら、私は生きていないでしょう」。当時13歳。地面から這い上がってくるような戦争の恐ろしさを感じた瞬間だった。
隣の家で玉音放送を聞いたとき、吉川さんは何を話しているのかわからず、「厳しい戦局だけど、がんばろう」という激励の言葉だと思ったという。2、3日後に大人から敗戦を聞かされたときはショックを受けた。「まさかと驚いたけど、もう焼夷弾は落ちてこないんだと思うとほっとしました」と吉川さん。「もう二度と戦争は嫌だ。体験者全ての願いなのでは」と静かに目を閉じた。
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