「混迷の時代」に協働の輪
平成を振り返り、前市長の大藏律子氏に話を聞いた。大藏氏は平成15年〜23年の市長在職中、「協働のまちづくり」「子育てするなら平塚で」というソフト重視の政策を掲げ、自治基本条例の制定や町内福祉村の拡充、ブックスタート、学校司書の配置などに取り組んだ。
一方、懸案とされていた市庁舎と環境事業センター、市民病院建設の3大事業にも一定の道筋をつけた。「ハード事業をするために市長になったわけではなかったのですが、もう先送りできない時期だった」と語る。
完成を見届けた環境事業センターは、立地に懸念を示す大神地区に「土下座をしてでも、という思い」で何度も説得に訪れた。「思いが通じ、地元に決断していただいた時の感激は今も忘れられません」と振り返る。
市庁舎建設は2期目の再選直後、対立陣営にあった河野太郎代議士と会談。「選挙が終わればノーサイド、税務署との一体整備へ働きかけを約束してもらった」と話す。市庁舎に国機関が入るという全国初の事例に先鞭をつけることができた。
学校司書は、小中学校の図書室を活性化させるだけではなく、地域の読み聞かせボランティアの拠点にもなった。横浜ゴムから移築した八幡山の洋館は「海軍火薬廠、空襲の記憶を残すためにも必要だった」と話す。
4期務めた市議時代を含め、四半世紀にわたり平塚市政を見つめてきた。
石川市長時代は総合公園や美術館などが次々と整備。「競輪事業収入からの繰り入れが大きく、お金を何に使うか考えるような時代だった」と話す。
平成はバブル経済が崩壊、大災害に見舞われた。「混迷の時代だったと言えるでしょう。財政も厳しく、市政運営も厳しかった。ただ、何とか助け合おうという精神が芽生えたのではないか」。まちづくりへの市民参画の気運を高めた自負もある。
令和を迎える平塚には、何となく殺伐とした空気を払しょくして欲しい。そのために社会教育と地域交流の充実が必要だと考える。
全国的に珍しい26ある公民館が貸館的活用に終始し、十分生かされていると思えない。「平塚は4Hクラブ(農業青年クラブ)の先進地で、社会教育と地域交流が盛んだったため公民館の存在が求められたと聞く。その原点を継承し、地域で地域の人と学び合える場を充実させて欲しい」と話す。
「適度に田舎で都内の美術館にも日帰りで行ける」と今も住み心地よく暮らし、新時代をゆっくりと迎えるつもりだ。
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