1945年7月16日夜から17日未明にかけて市内を襲った「平塚空襲」から74年が経つ。市街地だけではなく、農村地域にも焼夷弾は落とされ、甚大な被害をもたらした。当時の金田村で空襲を体験した人に話を聞いた。
江原晃さん(85)、ミキさん(85)夫妻は生まれも育ちも入野の幼馴染だった。戦時中を振り返り「戦争が当たり前だったから、特別怖いとも思わなかった」と晃さんが呟けば、ミキさんは「私はなんて恐ろしいんだろうと思っていた」と表情を曇らせる。当時2人は小学校5年生だった。
金田村の空襲では長持から金田小学校や村役場へ北に延びる一本道に沿うように焼夷弾が落とされた。地元では「金田小の講堂にモーターなどの軍備がある」と知られ、そこが標的になったと推測される。
「今思い出しても、嫌な光景」とミキさんが挙げるのが、空襲の火に照らされた逃げ惑う人の影。ミキさんの家は標的となった道から350mほど東にあった。「道沿いは全て燃えていたので、火のない方、豊田方面へ妹の手を引いて逃げました。中原の方からも人が来て、みんなどこへ向かうんだろうと思った」と話す。
晃さんはその夜、家の畑の防空壕に留まった。祖母が「死ぬならこの家で」と譲らなかったからだ。炎はすぐそばまで迫り、蔵などは焼けてしまったが母屋は運良く残った。その日の金田村の犠牲者は2人だったという。
農家の家に生まれたため、「贅沢はできなかったけど、食べるものは何かしらあった」と2人は口を揃える。米がなければ麦、麦がなければイモが主食だった。
戦後、ミキさんの家には食料を求めた被災者が横浜などからリュックを背負って訪ねてきた。着物とサツマイモや麦を交換したという。
戦後、学校教育制度の変化に翻弄された世代。ミキさんは「空襲を経験して、勉強も全然できなかったけど、兵隊に行かずに一生を終われそうだから、幸せです」と平和の大切さを噛み占めるように話した。
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