東中原在住の佐野明子さん(96)は1924年に本宿(現在の平塚1丁目付近)で生まれた。明子さんの生まれた頃、平塚農業高校の教師だった父は定年前に退職して製パン店「佐野パン」を開業。小売のほか、近隣の工場への販売や商店への卸も行っており、20人ほどの職人を抱えていたという。「ただでさえ6人姉妹の末っ子で賑やかなのに、それに加えて職人さんもいた。とっても楽しかった」と振り返る。
明子さんが小学4年生のころ、職人が独立したことや後継ぎがいないことを理由に父は製パン業を廃業。職人のいた賑やかさはなくなった。「寂しくって、叔母がまちなかで営む薬局の店先に座って行き交う人を眺めていた。当時は地方から工場に勤務しにきた女工さんで大賑わいだったんですよ」と懐かしむ。
通勤はモンペで
第一尋常小学校(現・崇善小)を卒業後、平塚高等女学校(現・平塚江南高)に進学。日中戦争開戦により男性の働き手が不足し、卒業を待たずに東京電力平塚営業所に就職した。その後は職業婦人としてカネボウの東京本社に勤務。モンペを着て電車通勤した。
戦時中で物がなく、会社の近くのタバコ工場に勤める女工と物々交換したこともあった。「カネボウのコールドクリームが欲しいと、女工さんがタバコを持ってくるんです。私は随分うらやましがられました」と話す。
平塚空襲で自宅焼失
45年7月16日深夜からの平塚空襲当時、佐野さんは21歳。夫は北支(中国)へ出兵しており、両親と姉の4人で平塚の自宅にいた。平塚駅付近はすでに火の海となっており、佐野さんの畑を通って、周辺の桃畑へと避難する人が続いた。「知らない人がぞろぞろと。畑に通じる戸を閉めてしまおうかと姉と話していると、父はこんな時だからこそ開けていないとダメだと言いました」
しかし17日の朝、近所の海軍倉庫が標的となり自宅も焼失。「煙で目が開けられなかった。怖い気持ちは抜けてしまった」と、その光景に呆然とするばかりだった。
両親の故郷の山梨に疎開しようと、荷物を積んだリヤカーを引いて平塚駅南口に向かうと、駅員から「今日は天皇陛下の話があるから」と止められた。いよいよ終戦なのだと直感し「『これでせいせいと電気をつけて読書できる!』と帰り道はルンルンでした」。夫は終戦から2年後に帰還、佐野さんは再び職業婦人として通信社や渋谷区図書館などで活躍した。
佐野さんは「私は戦争っ子で、青春なんてなかったけど、思い切り働くのは楽しかった」と目を細めていた。
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