花水台在住の二宮毅さん(84)は、平塚第一国民学校(現・崇善小)3年の時、平塚空襲を経験した。当時二宮さんは現在の代官町に住んでおり川崎の学校で教員を務めていた父と母、兄、弟2人の6人家族だった。
家族で松林へ避難
7月16日、すでに家族揃って就寝していたが、警報音や照明弾などの騒ぎで目を覚ました。消火にあたろうとする父を残し、母や兄弟と庭に掘った防空壕に避難した。「父は勤務先の川崎で空襲を経験していたから、家に焼夷弾が落ちた時を想定して、火を消そうと待ち構えていた」と二宮さん。両隣の家が被弾し炎が迫ってきたため、燃え盛る住宅や焼夷弾が直撃した人の亡骸を横目に、必死で海岸の松林を目指した。後から父とも合流し、幸い家族に怪我はなかった。
翌朝、焦土と化したまちを歩き、家に戻った。「道も建物もなく、まちはめちゃくちゃ。父の自慢だった御影石の柱が倒れているのを見つけて、かろうじて自分の家だとわかった」。2、3日を即席で建てたバラックで過ごし、吉沢の親戚のもとに家族で身を寄せた。「吉沢で過ごした日々は本当に楽しかった。そこで叔父に習った草鞋作りは今でもできますよ」と笑顔を見せる。
「悲劇」は終わらず
戦後の厳しい時代を実感したのは、空襲などで家を失った人が入れる戦災寮(寒川)に移り住んだ時だ。寮には東京や横浜など、各地から戦災者が入居しており、建物は兵舎を活用した粗末なものだった。「空いている土地にサツマイモやナスを作るんですが、やっと実がなり出したと思うと、すぐ盗まれてしまう。悲劇でした」。5歳になる弟を栄養失調で亡くしたのも、この頃だ。
元教員として振り返る
二宮さんはその後、多摩美術大学を卒業、東映動画のアニメーターを経て、高校の美術教諭となった。「戦中、戦後の先生たちは大変だったろうなと思う。正しいと教えていたことが一変したのだから。一生懸命な先生ほど葛藤があったはず」と教諭となった自身と重ね合わせる。「物事を決める権限のある人たちと、現場の人の考えが乖離している。市民の犠牲が何一つ報われない、どうしてあんな戦争をやったのかと思えてしょうがない」とやるせなさをにじませていた。
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