いつも「ひらつか歴史ばなし」をお読みいただきありがとうございます。平塚にゆかりのある人物のエピソードや平塚で起こった出来事などを物語形式で掲載してきましたが、その物語の実際の舞台も紹介したいと思います。
前回(第一回・石橋山・石橋山合戦と真田与一の奮戦)からの続きです。石橋山の戦い(一一八〇年)で、源頼朝(みなもとのよりとも)から先鋒(せんぽう)を命じられた真田与一義忠(さなだよいちよしただ)と、敵の俣野(またの)五郎景久(ごろうかげひさ)が組み合ったというねじり畑から山側に階段が伸びています。念仏坂(ねんぶつざか)と言うそうです。
ここを登っていくと、この地で討ち死にした与一を祀(まつ)る佐奈田霊社(さなだれいしゃ)があります。神仏習合(しんぶつしゅうごう)の霊社です。現在も神仏習合のままの施設は、全国的にも珍しいのではないでしょうか。
霊社は、のど・せき・ぜんそく諸祈願所として参詣(さんけい)されています。それは、与一がのどの神様として祀られているからです。神号(しんごう)(神としての名前)は、魁秀明神といいます。
与一には次のような話が伝わっています。石橋山の戦いのとき、与一はのどを患っており(あるいは喘息(ぜんそく)の持病があったとも)、俣野五郎と組み合ったときに声が出せなくて、味方の応援を呼ぶことができなかったと言います。
別の伝説では、俣野五郎を組み伏せた与一が、五郎の首を斬ろうとしたとき、血のりで脇差(わきざし)の刀が鞘(さや)から抜けず、口にくわえて引き抜こうとしたところせき込んでしまい、駆け付けた長尾(ながお)新六(しんろく)定景(さだかげ)のために討ち取られてしまったというのです。
霊社では、のどに効くという佐奈田飴(あめ)や御霊符(飲み込むことで霊験(れいげん)があるという小さな紙片)が売られています。
霊社を管理しているのは、ここから少し離れたところにある石王山地蔵院宝寿寺(ほうじゅじ)です。霊社発行の冊子には、次のような内容が書かれています。与一を討った長尾新六は、後に捕らえられ岡崎義実(おかざきよしざね)に預けられますが、義実は彼を許します。定景は石橋山に来て庵(いおり)を結び、与一の冥福(めいふく)を祈りました。その庵の跡に、天正十五年(一五八七)、真言(しんごん)宗の真源和尚を開山として建立された寺院が宝寿寺です。その真源和尚が、石橋山古戦場に与一を祀るため霊社を建てたのです。
本殿には、与一像が祀られており、江戸時代に書かれたという与一と俣野五郎との組討(くみうち)図も掛けられています。ほかに、つぶて石(武器として使用された小石)や刀が、古戦場の埋蔵品として展示されています。
境内には、与一を葬(ほうむ)ったという与一塚や、戦場に赴(おもむ)く前に与一が力試(ちからだめ)しをしたという手付(てつけ)石があります。掌(てのひら)の形が残っている石です。ただ、この手付石について、『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』(江戸時代後期に編纂(へんさん)された地誌)には、敵将である俣野五郎が付けた掌の痕だと記されています。もしそうであれば、怪力の五郎を組み伏せた与一はもっと強いということになりますね。
ねじり畑から南西に坂道を上がっていくと、与一の郎党(ろうとう)(家来)である陶山文三家安(すやまぶんぞういえやす)を祀る文三堂があります。文三が討たれた場所と言われています。文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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