平塚市博物館が公式YouTubeチャンネルで公開している、鎌倉幕府創業に関わった郷土人物を描く動画「鎌倉殿と平塚の七人」。本連載では本編動画と関連したエピソードを紹介します。
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平塚の歴史の中で最も有名な女性といえば虎女かもしれません。若き兄弟が苦難の末に父の仇を討ち、亡くなった兄弟を生涯弔い続けるという悲恋物語のヒロインです。多くの伝説を残す女性ですが、虎女自身は歴史書の吾妻鏡にも登場しますから実在の人物でしょう。今回は全く別の視点から虎女を見てみましょう。
曽我兄弟の仇討ちの後、幕府内では権力のバランスが変化しています。頼朝の弟範頼が謀反の嫌疑をかけられて伊豆に流され、岡崎義実と大庭景義の重鎮二人が出家と称して失脚し謹慎を余儀なくされます。頼朝の側近である工藤祐経の殺害と、仇討ち直後に頼朝の寝所を目指した五郎の行動を含めた一連の動きは何らかのクーデターを示唆するとも考えられます。そこで吾妻鏡の虎女の記事が注目されます。事件の3日後に取り調べを受けた虎ですが、結果罪は無いとして釈放されます。つまり、単なる事情聴取ではなく、何らかの嫌疑がかけられていたのです。虎女には疑われる背景があったのでしょうか。
虎女の出自について、娯楽色の強い仮名本曽我物語では伏見大納言藤原実基と大磯の長者の娘とされていますが、成立時期が古い真名本曽我物語は宮内判官家長と平塚宿の遊女夜叉王の娘とし、大磯宿の長者菊鶴に育てられたとしています。物語によると宮内判官家長の母は平治の乱で源義朝と共に挙兵し落命した藤原信頼の兄基成の乳母ですから、基成と家長には乳母子として強い絆がありそうです。そして藤原基成は平治の乱の後奥州に下向し、基成の娘は藤原秀衡の正室となります。二人の間に生まれた嫡男こそ、事件の4年前に頼朝によって滅ぼされた藤原泰衡なのです。奥州藤原氏滅亡から2年余り、十郎と出会った虎女の胸中に去来したものは何だったのか。残念ながら今となっては知る由もありません。
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