松風町在住の高梨哲誠さん(82)、桃浜町在住の安永享滋さん(83)、撫子原在住の兒玉利幸さん(82)は、小学校5年生のときに平塚空襲を体験した新制中学校(浜岳中)の同級生。3人がどのように戦争を体験したのか、話を聞いた。
戦争がある日常
第四小学校(富士見小)までの2キロ以上の道のりを兒玉さんは通学していた。「空襲警報が鳴ると帰らされ、解除になると学校に戻るのだけど、家が遠く人より時間がかかって、何していたんだと先生に怒られた」と笑う。近くの海岸の海軍陣地も遊び場で「兵隊さんが意外とかまってくれたから、ちょくちょく行っていた」と興味津々だった。
「育ち盛りの胃袋を満たしたのはサツマイモ」と3人は口をそろえる。もともとあった桃畑は、贅沢だとサツマイモ畑や麦畑に変わった。「乾燥したイモしかなければ、粉にして練ってイモモチにした。忘れられないね」と口々に話す。
根からとれる油を航空機の燃料にしようと駆り出された松の根掘りや、学校でコッペパンと交換してもらうためのどんぐり拾い、出征兵士の家での草むしりも戦中の思い出だ。
空襲の夜
3人はそれぞれの自宅にいた。照明弾がまちを照らす様子に「ついに平塚で空襲がはじまる」と覚悟した。
安永さんは防災ずきんをかぶり、家族と一緒に家を飛び出した。弟妹と一列に並び、ふとんをなるべく高く持ち上げて、弾を浴びないようにした。「先頭を走っていたので、屍を避けるほうが大変だった」と話す。
その時兒玉さんは自宅の防空壕へ、高梨さんは海岸へと避難し、夜が明けるのを待っていた。松林の隙間からは、赤く燃える平塚のまちと、避難してきた大勢の人が見えた。
晴天の8月15日
「終戦の日は日本晴れ」と高梨さんは鮮明に思い出す。玉音放送を聞くため、焼け残った近所の家に足を運んだ。「上半身裸で行ったら、天皇陛下のお言葉を聞くのに失礼だから何か着てこいと怒られた」と舌を出す。子供には難しく言葉の意味は理解できなかったが、大人たちの様子に「終戦」を感じ取った。
兒玉さんと安永さんは自宅で放送を聞いた。兒玉さんは父に「もう空襲こないね。遊びに行っても大丈夫だよね」と確認した。戦中は通学途中に艦載機に追われ、麦畑に逃げ込んだこともあった。「もう怖い思いをしなくていいんだ」と心の中でほっとして、その午後はさっそく海に出かけた。
戦後のはじまり
食糧難は戦中より戦後のほうが厳しかった。安永さんは母の着物を農家に持っていき食糧と交換してもらおうと、伊勢原や、時には御殿場まで足を延ばしたという。当時は花水橋しか川を渡る手段がなかったため、旭村あたりで闇市の取り締まりをうけることもあった。「捕まると交換したものもみんなとられてしまう。みんな必死でした」
高梨さんの家は「高梨雑貨店」(モンマートたかなし)を営んでおり、油や砂糖、醤油などを食糧切符と引き換えていた。「醤油や味噌の製造元に父親とリヤカーを引いて取りに行きました」。自宅兼店舗は空襲で全焼していたが、配給を求めてくる人たちのため、すぐに小屋を建てて迎えた。
「僕たちは生き延びられた人だから、夢中で生きた」と高梨さん。その言葉に兒玉さんも「運が良かった」と続ける。安永さんは「どんな理由があろうと戦争はよくない。人の心も社会そのものもむしばまれる」と忘れることのない記憶に思いを馳せる。
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