1945年7月16日夜から17日未明にかけて市内を襲った「平塚空襲」から74年。戦火を浴びた金田村を知る人に話を聞いた。
入野在住の今井良平さん(89)は当時15歳。平塚工業高校(現平塚工科高)の1期生で体格もよく、いつかは海軍火薬廠に勤める兄のように国に貢献しようと志していた。
家は米農家。ニワトリを飼育していたため、栄養価の高い卵も手に入った。高校の同級生に農家は少なく食糧難の家庭もあったため今井さんは「卵焼き入りのドカ弁を持って登校すると、朝ごはんを食べていない友達に分けてあげました」と話す。
横須賀の海軍基地に赴任していた兄が45年5月に帰郷すると、空襲される可能性を感じていた兄の指示で米俵などの大切な荷物を家の外に出して保管した。米は定められた量を供出しなくてはならず、何よりも貴重だったからだ。
金田村を襲った空襲で、家は丸焼けになったが、どうにか命は助かった。ちょうど火が広がる境目で、向かいの家は焼けずに済んだため約3カ月、8畳間ほどの離れに泊めてもらった。風呂は家が残った近所を回り借りた。助け合うのが当たり前だった。
「入野で被害に遭った30軒ほどの家の中でも、一番再建が早かった」と今井さんは胸を張る。「何より物がない時代だったけど、米俵1つでトラック1台分の材木が届いた。豊田の大工に依頼して、僕たち兄弟も柱を建てるための穴を掘って手伝った。兄さんの言う通り、米を避難させて正解だった」とうなずく。
学徒動員で、44年の9月から終戦まで、現在の平塚競輪場付近の工場に通い、鉄を溶かす燃料をリアカーで運び続けた。同じ工場に同級生の女子がいたが、男女が会話をすることは禁止され、軍刀を下げている将校が見回りに来ては睨みを利かせていた。今井さんは「国のため、と当時は必死。終戦後、簡単に『明日は来なくていいよ』と言われた。月15円もらえると聞いていたのに、1円も支払われていない」と、ため息をついた。
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