1945年7月16日夜から17日未明にかけて市内を襲った「平塚空襲」から74年が経つ。当時の金田村で空襲を体験した人に話を聞いた。
茅ヶ崎市南湖在住の小島照子さん(90)、市内豊田宮下在住の古尾谷八重子さん(84)姉妹は、入野で農業を営んでいる今井家の長女と次女。照子さんは16歳、八重子さんは10歳で終戦を迎えた。
照子さんは平塚市立実科高等女学校(現・高浜高校)在学中、学徒動員で須賀の工場に詰め、飛行機に搭載する動翼の部品を作っていた。自分の背丈よりも長いジュラルミンの板を切断し鋲で止める作業は「なかなか難しかった」と苦笑する。金田小学校に通っていた八重子さんは「鷹取山への遠足の道中ですら手旗訓練をした」と言う。
照子さんも八重子さんも、お弁当の思い出話になると顔をほころばせた。麦を混ぜた日の丸弁当が定番で、味噌付きの生姜や削り節がお供のときもあった。「ちくわが入る時はごちそう。うれしかった」と照子さん。お弁当を包む新聞紙すら貴重で、八重子さんは「汁気があるおかずの時に、鞄を揺らして包みを汚すと怒られた」と笑う。なるべく白米を多く見栄え良いようにとよそられた弁当箱に母の愛情を感じた。
家や学校へと迫る炎土手から呆然と眺め
母屋の2階では養蚕を営んでいた。空襲の夜、横浜の親戚が疎開させた荷物もあったため「うちが焼けたら親戚みんな丸裸になってしまう」と、祖父と父は家を守ろうと残った。
「具合の悪い祖母は置いて、母に手を引かれて2人の妹、弟と一緒に泣きながら金目川方面に逃げた」と照子さん。田植えをしたばかりで足元はぬかるみ、下駄も履いていられなかった。
金目川土手から家の方を眺め、八重子さんは「学校が、農協が燃えている。お米も焼けちゃったかな。みんな大丈夫かな」と不安で仕方なかった。
炎が鎮まった頃家に戻ると、かろうじて母屋は焼けずに残っていた。1階まで貫通した焼夷弾もあったが、落ちた瞬間に父が庭に放り出して助かった。2階の養蚕の網には不発弾がたくさんからまっていたという。極度のストレスからか、祖父はその晩に心臓発作で亡くなった。横たわる祖父の近くに座り込んでいると米兵がパイプを燻らせながら様子見するように歩いており、「すごく嫌だった」と八重子さんは顔をしかめる。
終戦の日、ラジオがある自宅に30人ほどが集まり玉音放送を聞いた。大人達の沈んだ雰囲気で負けたと分かった。八重子さんが外に出ると、飛行機が飛んでいるのが見えた。「敵か味方か分からなかったけど、初めてのんびりと飛行機を見上げることができた」と話す。
照子さんは終戦後も「怖い思いをしてきたから、将来に自信なんて持てなかった」と振り返る。「まさかこんな豊かな世の中になるとは。もう二度と戦争はしないでほしい」と祈るように呟いた。
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