いつも「ひらつか歴史ばなし」をお読みいただきありがとうございます。平塚にゆかりのある人物のエピソードや平塚で起こった出来事などを物語形式で掲載してきましたが、その物語の実際の舞台も紹介したいと思います。
今回は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連で「土屋宗遠(むねとお)・義清(よしきよ)親子、足柄峠で出会う」の舞台となった足柄峠を紹介しましょう。
治承四年(一一八〇)八月、伊豆に流されていた源頼朝は、平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉に向かう途中で大庭(おおば)景親(かげちか)の軍とぶつかります。石橋山の戦いです。この戦いで大敗を喫(きっ)した頼朝は、箱根山中を彷徨(さまよ)うことになりますが、このとき甲斐(かいの)国(くに)(現山梨県)の源氏に味方になるよう使者を送ります。
「鎌倉殿の13人」では、このときの使者は北条(ほうじょう)時政(ときまさ)・義時(よしとき)親子でしたが、『源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)』には、土屋宗遠が使者になり、足柄山中で養子の義清と出会うエピソードが載っています。当時の歴史書である『吾妻(あずま)鏡(かがみ)』には、頼朝が房総半島(千葉県)で再起を図っている九月二十日に、宗遠が使者として甲斐に向かったことが記されていますが、『源平盛衰記』に載る話は、日付はありませんが、石橋山の戦いのすぐあとの話のようです。
土屋宗遠は、土屋(現平塚市)を本拠地とする武士で、西相模(さがみ)に勢力を持つ中村党の一族です。はじめ子がなく、姉の嫁いだ岡崎(おかざき)義実(よしざね)の次男である義清を養子に迎えていました。
その義清は、頼朝挙兵当時、京都にいました。『源平盛衰記』には平氏に仕えていたとありますが、このころの地方武士は、大(おお)番役(ばんやく)と言って京都守護の任務が定期的に課せられていましたので、その関連かもしれません。義清は、頼朝挙兵を聞いて、父たちと一緒に行動しようと関東に下ります。そうして偶然、足柄山中で宗遠と出会うのです。
その足柄峠は、現在の神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町の境にあります。峠から東をかつては坂東(ばんどう)と言いました。古代の東海道はこの足柄峠を通っていたのですが、富士山の延暦大噴火(八〇〇〜八〇二年)で道が不通となり、箱根を越えるルートが新しく開かれました。その後、足柄道は修復されたので、箱根路と共に東海道の一部をなしたのです。
古代この辺には、租税や商品の荷駄を襲う盗賊団が横行していました。彼らは僦馬(しゅうば)の党と呼ばれていましたが、その取り締まりのため、昌泰二年(八九九)、足柄峠に関所が設けられたのです。関の置かれた場所や規模、廃止された時期などはわかっていません。『源平盛衰記』には、このとき峠に仮の建物が造られていたとあります。
関の通行には相模国の国司(こくし)(役人)が発行する過所(かしょ)(通行手形)が必要でした。もちろん、土屋宗遠も義清も持っていなかったでしょう。
峠には、ほかに足柄城跡、笛吹塚、聖天堂などの史跡もあります。足柄城跡から望む富士山は、そのすそ野の広さに感嘆します。訪れる機会があれば、ぜひこの富士の雄姿を堪能してください。
文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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