あす7月8日から始まる「湘南ひらつか七夕まつり」。70回の節目を迎えるまつりのルーツは、平塚空襲で焼け野原と化した平塚市街地の活性化のために企画された「復興まつり」だ。七夕まつりの創始者のひとりで、平塚商工会議所の副会頭も歴任した宮代長次さん(1910―95年)の息子・臣之(たかよし)さんは「父は国鉄に勤務していたころ仙台にいた。そこで見た七夕まつりをヒントにしたと聞いています」と、自宅に残る資料に目を落とす。
宮代長次さんは1910年に馬入村で生まれた。1928年から10年ほど国鉄に勤務し、仙台に赴任していた。「七夕まつり」を知ったのもそのころ。頭上を埋め尽くす豪華絢爛な飾りとそれを見ようと押し寄せる人波に圧倒されたという。
日中戦争・太平洋戦争に出征。土木系事業を営む親族が多く、そこで得た測量技術を効率的な兵站(たん)管理に役立て軍の中で高く評価されたという。「昔からアイデアマンだったようです」と臣之さん。終戦から約1年後に帰郷し、地元で建設会社・東海ビルド株式会社を起業。平塚の商業界に足を踏み入れた。
仙台お手本に
「いつまでも復興まつりというわけにもいかない。なにか違うまつりの案はないだろうか」と当時商工会議所副会頭を務めていた長次さんに相談してきたのが、初代商工会議所会頭で平塚市長の柿澤篤太郎氏だった。長次さんがまず思いついたのが仙台の七夕まつりだ。「期間中ならいつでも飾りを見ることができ、老若男女が楽しめて、商店街の宣伝にもなるものを目指したと聞きます。父の赴任先が青森だったら、ねぶた祭りになっていたかも」と臣之さんは笑う。
手探りの飾り作り
臣之さんの七夕の思い出は小中学生のころ、庭先で近所の人たちと作った七夕飾りだ。竹で作った丸い骨組みに新聞を貼り、和紙の花で飾る。「七夕が始まって数年はくす玉も吹き流しも和紙製の飾りだったので雨に弱かった。試行錯誤をみんなでする中で対抗心のようなものも芽生えておもしろかった」
手探りで「七夕まつり」を作る中、長次さんには「竹飾りをきれいに飾れば必ずお客さんは来てくれる」という確信が生まれていたようだ。飾りは年々大型化し、まつりの顔となった。
中止の危機、昔も
七夕まつりの初の中止は新型コロナ感染拡大が原因の2020年だが、実は1973年にも中止の危機を迎えていた。
駅ビル建設反対運動により商店街連合会と行政が対立。お互いに協力できないという結論に至り、加藤一太郎市長は第23回七夕まつりの「中止」を宣言した。「七夕の灯を消すな」と声をあげたのは、当時市議会議員だった長次さんだ。同年の6月議会では、加藤市長に七夕中止を言明した原因について追及する場面もあったという。
「七夕の灯を消すな」はそのままスローガンとなり、まつり開催を目指して商工会議所有志が立ち上がった。長次さんの回顧録では「会議所全体が燃え上がっていたので、資金の五百万円は四五日で目途が立った」とある。準備期間を確保するために8月の開催となったものの、七夕の灯は守られた。
生涯の「誇り」に
七夕の「創始者」として功労者表彰を受けたのは、柿澤市長と、長次さんの2人だけだった。
臣之さんは七夕期間中、家族で足を運ぶほか、自宅にミニ七夕飾りと、七夕飾りの下でテレビのインタビューを受ける長次さんが描かれた絵を飾ることにしている。「少しでも供養になるかと思って。『七夕は俺がつくった。これだけは自慢できる』とよく言ってましたから」
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