75歳。「現役最高齢広報専門家」を自ら名乗る。確かめたわけではないが、この世代で精力的に現場に出向いて取材を行い、逐次発信している”市民記者”はそうはいないだろう。扱う対象は、自分の琴線に触れた人や団体の活動だ。情報発信を通じて独自の支援を行っている。
取材活動「生業」から「生きがい」
市内でも広がりを見せている貧困家庭やひとり親家庭の子どもを対象に食事を振る舞う「子ども食堂」。少年院や刑務所を退所した若者の就労支援を行っているNPO団体の活動報告会。若い世代の投票率向上をテーマにした青年団体の選挙啓発イベント等々──。
実際に足を運んで取材を行い、写真とともに取り組みを自身のフェイスブックページで発信している。更新頻度はまちまちだが、週に1本から2本。圧倒の文字数が現場の熱量をそのまま伝えている。「取材したにも関わらず、編集が追い付かずに上げられていない記事も実はたくさんある」と苦笑いする平野さん。好奇心のアンテナを張りめぐらせて、軽やかなフットワークであちこちを飛び回っている。
肩書は「元新聞記者」
出身は東京都。早稲田大学を卒業後に産経新聞社に入社。記者を振り出しに、雑誌編集、広告営業に従事し、報道・広報の世界で生きてきた。今から35年ほど前に、馬堀海岸に居を求めて移り住んできたが、「家には寝に帰るだけ、という完全な”神奈川都民”」。始発に飛び乗って最終電車で帰宅する毎日に、地域社会の動きは関心の外にあった。定年後も8年間は民間のPR会社で中小企業の広報戦略を手掛ける役目を担い、キャリアを重ねた一方、「住む街に対する愛着や誇りは決して高くなかった」と当時を語った。
若者・弱者に光
だが、数年前に病気を患ったのを機にその思いは一変。「残りの人生をどう生きるか意識したら、自然と地域に目が向くようになった」。現役時代に培った経験やスキルを還元できる場所はないか。情報取集を行うと、若者や障がい者などの社会的課題解決に挑むボランティアや団体が熱心に活動していることがわかった。そうした中で、多くが抱えている悩みのひとつに「広報」があった。重要さを認識しつつも、自分たちの活動で手一杯となり、情報発信に手間と時間を割く余地がない。そんな実情を理解して、広報面での支援を申し出ると、頼られるようになった。今では、活動を紹介する記事を書いて発信するだけでなく、情報を拡散させる効果的なプレスリリースの書き方の指南など、広報専門家という見地から助言を求められる場面も増えている。
情報発信の怖さも
先ごろ市内の経営者などが参加するセミナーで、自身が歩んできたマスコミ生活を振り返る場面があった。思い出に残る出来事として数多あるエピソードの中から一番に切り出したのが、エネルギー担当記者を務めていた頃の話だ。
昭和40年代の原子力発電勃興期、相次いで新増設された発電所の話題を何の疑問も感じずに記事にした。時代を経て、東日本大震災(3・11)に伴う原発事故。「他の新聞社も同様で自分だけではないが、内心忸怩たる思い」とこれまで口外したことのなかった心情を吐露した。
「不特定多数に向けて発信される言葉には、責任を伴う」が持論だ。手元で手軽に操作できるツールが広まることによって情報の拡散スピードは格段に上がった分、慎重さも大切になるという。
平野さんに記事の最後には必ず「文責」の文字。これが広報専門家としての矜持を感じさせるのだ。
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