第21回「芹沢」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
芹沢村は高座丘陵の北向き斜面に広がり、市の最北部に位置していました。
関東支配した徳川家康は1591(天正19)年、村々の土地調査を行いました。この際に調べたと思われる1594(文禄3)年の「芹沢郷屋敷坪帳」には、65人の村人がそれぞれ何坪の屋敷なのかが書かれています。
17世紀後半と思われる古い絵図には、村鎮守の腰掛神社の前を北に下る道と、それが小出川を渡る橋が描かれ、橋のわきに「お江戸道、十二里、新道なり」とあります。江戸まで12里あるという意味で、当時はこの橋が江戸を向いた玄関口だったことを示しています。
腰掛神社について「腰掛明神社。大庭の神が腰を掛けし旧跡といい伝う。(略)小石一つを置いて神体とする」とあります。実際は持ち上げられないほどの大きさで、今も拝殿前のシイの大木の根元に祀られています。また「別当寺は修験の宝沢寺」とあります。江戸時代は神仏習合で、修験道の宝沢寺が腰掛神社を管理運営していました。しかし、明治政府の神仏分離によって廃され、境内の鐘楼にその跡がみられます。明治時代には『皇国地誌』に、石に腰掛けたのは蝦夷征伐に向う日本武尊、神社の祭神も日本武尊となっています。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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