第22回「堤」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
堤村の南北と東の三方は丘陵です。中央の西に開いた谷戸の縁に、人々は屋敷を構えていました。
鎮守の諏訪神社は、今は建彦神社といいます。1910(明治43)年、政府の指示で行谷村の金山神社と下寺尾村の諏訪神社を合祀し、金山神社祭神の金山彦命、諏訪神社建御名方命から「建」と「彦」をとったと伝えられています。
境内に「西征(西南戦争)陣亡軍人之の碑」が立っています。政府軍は1873(明治6)年制定の徴兵令で編成され、九州まで派遣された小宮松五郎が1877(明治10)年3月20日に肥後国(熊本県)玉名郡で戦死したことを伝え、その3年後に村が建てました。
『新編相模国風土記稿』には「江戸より十四里(約56Km)、地頭は大岡氏」とあり、江戸時代を通じて村は大岡家の領地でした。家康が家臣の大岡忠政に与えました。忠政は関東に移った当初、堤村に住まいを構えたようです。1611(慶長16)年に菩提寺として窓月山浄見寺を建て、1615(元和元)年に父・忠勝を三河国から改葬しました。寺創建翌年に本尊として阿弥陀如来も寄進しています。墓地には忠勝、忠政ら一族の墓石が並び、市の史跡に指定されています。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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