1945年7月16日夜から17日未明にかけて市内を襲った「平塚空襲」から74年が経つ。当時の金田村で空襲を体験した人に話を聞いた。
入野在住の今井貢さん(87)が金田村で空襲を体験したのは13歳の時。「食べるものは配給が頼り。親は苦労していたと思う」と育ちざかりだった当時を思い出す。地主の家だったが、小作人から寄せられる米はあくまで供出するためのものだったため、家族では一切消費できなかった。
食べ物も着る物もなく、「色々工夫していた」と今井さん。糸に加工するため農耕用の牛の毛をブラシでこすり取って学校に持って行った。野良ウサギを捕まえて農協に持参すると、皮は供出用に回収され、残った肉はもらうことができたという。
戦争終盤になると入野周辺の住民宅で兵隊が寝泊まりするようになった。今井さんの家には部隊長ら5人ほどが滞在し、別の班の隊員が任務の報告に頻繁に訪れた。
部隊長には炊事当番が1人ついており、魚や肉など、なかなか食べられないような食材を並べて炊事していたという。持ち込まれた荷物の中にはオートバイなどもあり、「子供ながらに、ただただうらやましく眺めていた。食料の余りをもらうとか、そういうことはなかった」と話す。
今井さんの自宅の物置には、「荷物疎開」として海軍火薬廠の絹糸などが持ち込まれ、保管されていた。終戦と同時に関係者が取りに来たという。
「まちの文化」奪われ
空襲の夜、高麗山方面が照明弾で昼間のように照らされているのに目を丸くしながら、祖父母と共に真っ暗な豊田方面に逃げた。父と母は消火活動をしようと家に残っていた。養蚕のために植えられた桑の樹に身を隠し、田んぼの水を飲んで喉を潤した。夜が明け、家が焼けずに残っていたことや父母の顔を見て安堵したという。
「まだ子供だったから、戦争の本当の怖さはわからなかった」と今井さん。「大切にしてきた田んぼも、せっかく納めた米も、学校も焼けてしまった。まちの文化が根こそぎ奪われた感じ。もう二度と、起こってほしくないです」と静かにつぶやいた。
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