多摩市のおよそ6割が開発事業区域に含まれる多摩ニュータウンへの初期入居(諏訪・永山地区)が始まって26日で50年。開発により人口が増え、インフラが整備されるなど、ニュータウンの成長と共に多摩は発展を遂げてきた=中面に関連記事。
ニュータウンの構想が持ち上がったのは1960年代。その頃、国内は高度経済成長期を迎え、都心に人が集中するようになると、急激な人口増のため住宅不足が顕著となり、都はその受け皿となる地を検討。そこで挙がったのが、未整備の地が広がっていた多摩地域だった。
小規模な開発が進み、建物が乱立して建つようになっていた同地域に対して都は整備を進めたいという意図もあり、多摩ニュータウンとして、およそ3千ヘクタールに及ぶ都市計画を確立。民間会社らの協力の元、整備を進めていった。そして、1971年に諏訪・永山地区から入居が始まると歩車分離の広い道路や、数多くの公園、商店などを計画的に配置したニュータウンは当時、大きな注目を集めた。
一方で人口は急増していき、入居が始まった時点では町だった多摩も、人口増に合わせて、同年の11月に市へ移行。市の資料によると、71年から昨年までの間、ニュータウン以外の地域では、およそ2万人が増えた一方で、ニュータウン地区は約9万人の増加がみられた。2020年における市の総人口14万5985人のうち、ニュータウン地区の住民は9万7279人。市の人口の6割強を占めるほどになっている。
つながり生まれる
研究者らの注目も集めている。市の文化活動推進の事業にあたる多摩市文化振興財団(パルテノン多摩共同事業体)の学芸員、仙仁径さんは「ニュータウンの開発により、規則正しい道路網などが整備されていったことは多摩市のインフラ充実につながった。この恩恵は今につながると思う」と話し、同僚の橋場万里子さんは「入居者のなかにはつながりも生まれたよう。資料を読み取ると、みんなで新しい街をつくっていこうとする強い気持ちが伝わってくる」と話している。
世界的に稀
また、ニュータウンの歴史を調査・研究している、地域住民らで構成される「多摩ニュータウン学会」の理事で明星大学(日野市)教授である西浦定継さんは「多様性のある住宅が立ち並び、正確に緑が植えられた都市計画の教科書通りにつくられた街」とニュータウンを評し、「このような開発は世界を見渡しても珍しく、今後、更に40、50年経過した後、どうなっているのか興味深い」を笑顔をみせる。
一方で、仙仁さんはこうも指摘する。「多摩に大きく貢献してきたニュータウンも、元々住んでいた人たちの理解があった上での開発。そのことは歴史を振り返る上で忘れてはならないことと思います」
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