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日本国憲法の制定過程から学ぶ 岩崎弥太郎と三菱財閥 〈寄稿〉文/小川光夫 No.75

公開:2011年7月1日

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大磯聖ステパノ学園入り口
大磯聖ステパノ学園入り口

 前回は澤田美喜について紹介したが、今回は旧三菱財閥の創設者岩崎弥太郎について触れながら三菱財閥の形成や美喜の父親でもある岩崎久弥について紹介することにする。

 岩崎弥太郎は土佐の井ノ口村という貧しい農村で育った。岩崎家はもともと半農半士である郷士であったが、聞くところによると岩崎家は甲斐武田の末裔ともいわれる。したがって岩崎家の家紋も武田菱に由来しており、あの三菱のトレイドマークもそこ に起源がある。弥太郎は安政元年(1854年)、それはちょうど明治維新政府とペリーとの間で日米和親条約が締結された年であったが、18歳の時に初めて土佐から江戸にやって来る。そこで安政の大地震に遭遇した弥太郎は、救出活動などで活躍するものの、父の弥次郎の怪我の知らせを受けて1年あまりで江戸を諦め井ノ口村に戻ることになる。その後、弥太郎は長濱村の吉田東洋の少林塾に入門して後藤象二郎と知り合うが、その塾で頭角を現わしていく。慶応元年(1865年)には郡の下役に登用されるが(この年に長男久弥が生まれる)、弥太郎が海運業に関わりを持ったのは、慶応3年(1867年)に後藤象二郎から長崎商会の主任を命じられたことがきっかけであった。そこで弥太郎は世界各国の貿易商人との取引を行ない、商人としての資質を磨いただけでなく、友人の後藤象二郎を助けて土佐藩のための資金繰りに奔走した。さらには龍馬率いる海援隊の活動費を財政面から支援した。1869年(明治2年)、後藤象二郎によって大阪商会の責任者となった弥太郎は、藩の財政を賄い、土佐藩士により設立された九十九商会の事業を監督した。その後弥太郎は大阪藩邸の責任者となり、明治4年(1871年)には九十九商会の経営を一手に引き継ぐことになる。そして明治6年、社名を「三菱商会」と改称し、翌年には本店を大阪から東京の日本橋に移し、その名をさらに「三菱蒸気船会社」と改め、三井や鴻池、小野組などの「日本国郵便蒸気船会社」や英米の海運会社と競い合った。

 その頃政府は、台湾に漂着した琉球島民が殺害されたことに対して清国と揉めていたが、明治7年に政府は台湾出兵に踏み切ることを決意する。しかし輸送船などの協力を期待していた日本国郵便汽船会社が運航の承諾をしないことから、政府は岩崎弥太郎に運航を委託することになる。判断を誤った日本国郵便汽船会社に対して台湾出兵で13隻の大型船を委託された三菱汽船会社は、台湾出兵後は、沿岸航路の日本国郵便汽船会社との競争に勝利を得て海運業界のトップに押し上がっていった。
 

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