日本国憲法の制定過程から学ぶ 第二次吉田内閣と民政局の対応 〈寄稿〉文/小川光夫 No.105
芦田内閣が倒れて、その後継者として自由党幹事長の山崎猛が持ち上がった。これは副幹事長であった山口喜久一郎(きくいちろう)が民政局次長ケーディスから示唆されたものであるとされているが、その真実は分かっていない。しかし当時の政治家達の連絡係りはGHQ詣でを行っては、意見を聞き出し、それを勢力拡大に利用していたこと、またケーディス次長など民政局がG2との関わりをもつ吉田茂を嫌っており、どちらかというと山崎の方に信頼を寄せていたことが分かる。そんなことから山崎首班挙国連立内閣構想が現実味を帯びてくる。自由党内では、広川弘禅などアンチ吉田グループが動きだして民主党や社会党に働きかけ、さらに彼らは総務会を開いて吉田の総裁辞任を要求した。しかし、この時、その動きにストップをかけたのが一年生議員の田中角栄であった。田中は「占領下といえども、GHQが首班人事まで干渉することは内政干渉である」と捲し立てた。これを機に、総務会では吉田首班でいくべきであるとの声が持ち上がり、吉田首班で体勢を占めることになった。しかし、自由党内の反勢力や民主党、社会党、国協党などが共謀して山崎に投票すれば吉田首班は危ぶまれる。そこで吉田は、自由党の長老、益谷秀次を通して山崎猛の衆議院辞任を要求した。こうして10月14日の指名投票では、吉田茂が184票(ちなみに片山哲は87票、三木武夫が28票であった)で勝利を収めた。こうして吉田は組閣を行うが、自由党は、議席数約三分の一の少数政党に過ぎなく、吉田は組閣後直ちに憲法第7条3号によって衆議院を解散するつもりであった。しかしGHQは吉田内閣に政令201号として国家公務員法改正案の成立、官公吏の給与改訂、それにともなう補正予算の編成など難題を至上命令として吉田内閣に要求してきた。吉田は、またしても民政局(GS)の内政干渉に苛立ったが、それにも堪え、解散を先延ばししてそれらの案件をこなしていった。
そんな時に12月13日、臨時国会で、酒に酔った蔵相泉山三六が民主党の山下春江代議士に抱きついた、という事件が起こった。民主党は泉山の辞任を要求しただけでなく、吉田内閣の責任を追及してきた。吉田はこれを好機と思い衆議院の解散を断行しようとしたが、ケーディスは社会党、民主党を擁護するために「憲法第7条3号による内閣の解散はできない。内閣の解散は内閣の不信任案が提出され、決議されなければできない(憲法第69条)」と主張した。困った吉田はマッカーサーに相談するが、マッカーサーはGSのウィリアムズ国会課長を通して「第四次国会で、補正予算を一週間以内に成立させた後、野党は吉田内閣不信任案を提出し、これを可決する。それで政府に解散の機会を与える」という調停案を示した。
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